公暁
公暁(くぎょう、正治2年(1200年) - 建保7年1月27日(1219年2月13日))は、鎌倉時代前期の僧侶。源頼朝と北条政子の孫。父は鎌倉幕府の第2代将軍・源頼家で次男。母は足助重長(加茂重長)の娘(源為朝の孫娘)が有力だが、比企能員の娘、三浦義隆の娘とする諸説があり不詳[1]。兄弟姉妹に一幡、栄実、禅暁、竹御所がいる。幼名は善哉(ぜんざい)。第3代将軍で叔父にして猶父であった源実朝を「父の仇」として暗殺したが、自身も直後に討ち取られた。
生涯[編集]
別名に左衛門法橋頼暁ともいい、実朝を討ったため悪別当などとも呼ばれている。元久元年7月18日(1204年8月14日)に父の頼家が北条時政により暗殺されると、元久2年(1205年)12月に祖母である北条政子の計らいがあって鶴岡八幡宮寺別当尊暁の門弟となる[1]。建永元年(1206年)6月に政子の屋敷で着袴の儀を行ない、10月に叔父で第3代将軍である源実朝の猶子となった[1]。建暦元年(1211年)9月に鶴岡八幡宮別当定暁の下で出家し、法名を公暁と称して受戒するために上洛する[1]。
建保4年(1216年)夏に園城寺長吏の公胤の弟子になって園城寺に住むが、建保5年(1217年)6月に政子により鎌倉に戻るように命じられ、この際に鶴岡八幡宮の別当に任命された[1]。この頃から、公暁に対して頼家の暗殺が実朝や北条義時による陰謀と吹き込む者がいたとされ、公暁は次第に実朝や義時に対して復讐しようと考えて若干の供の僧侶を連れて機会を伺いだしたという[1]。建保7年1月27日(1219年2月13日)夜、公暁は実朝が右大臣就任の拝賀のために鶴岡八幡宮に参詣して退出する際に自ら剣をとって実朝を殺した[1]。この際に実朝に供奉していた源仲章も殺害した[1]。『愚管抄』によると供奉していたのは北条義時と思い、公暁は誤って仲章を殺害したのであるという。この実朝暗殺の際に、公暁は「父の敵」と叫んだという。
公暁は実朝を暗殺すると、自らの乳母が三浦義村の妻であり、自らの門弟に義村の息子である駒若丸(のちの三浦光村)がいる関係から、義村に使者を遣わして自らを第4代将軍に奉じるために協力するように要請した[1]。しかし義村はこの要請を拒否して北条義時に属し、長尾定景を遣わして鶴岡の後ろの山において公暁を討ち取らせたという[1]。享年20[1]。
実朝を公暁が暗殺した理由に関しては、後鳥羽上皇との関係を深める実朝を危険視した義時が公暁をそそのかして実朝を討たせた後、三浦義村に後始末させたとする説、三浦義村が公暁をそそのかして実朝と義時を討たせた上で公暁を将軍職に据えて自らが実権を握るつもりだったが義時を討ち漏らしたので公暁を始末して三浦氏の保全を図ったとする説[1]、祖母北条政子が朝廷と談合して実朝の鎌倉殿後継に皇子を迎えることが分かってクーデターで実力で覆そうとした説、など諸説あり不明である。
なお、公暁に関しては当時生存説もあったとされ、殺害から7年後の嘉禄2年(1226年)に陸奥の白河関において不逞の輩が公暁を称して謀反を起こそうとしたが、幕府が派遣した結城朝広により討たれている事件も発生している[1]。