社会主義協会
社会主義協会(しゃかいしゅぎきょうかい)は、労農派の流れを汲む社会主義理論研究集団で、日本社会党の派閥の1つ。1951年に山川均、大内兵衛、向坂逸郎、太田薫、岩井章、高野実らによって発足し、社会党左派・総評の理論的支柱となった。1967年に太田薫を代表とする社会主義協会(通称:太田協会)と向坂逸郎を代表とする社会主義協会(通称:向坂協会)に分裂した。太田派が分裂当初は多数派を占めたため、従来の組織と機関誌『社会主義』の号数を引き継いだ。向坂派は新たな社会主義協会を「再建」した。70年代に向坂派が社会党の活動家の間で勢力を拡大したため、一般に社会主義協会もしくは協会といえば向坂協会を指すようになった。1989年に太田協会は日本社会主義者センターに改称した。1998年に向坂協会(佐藤協会とも)から新社会党系の社会主義協会(通称:再建協会、坂牛協会)が分裂した。2014年に坂牛協会から細川正を代表とする社会主義協会(通称:細川協会)が分裂し、現在は社会主義協会という名称の団体が3つ存在する。
歴史[編集]
前史[編集]
社会主義協会は戦前の日本資本主義論争において明治維新をブルジョア革命と規定し、当面する革命は社会主義革命であると主張した労農派の流れを汲む。1947年7月に山川均と向坂逸郎が編集委員代表となって労農派の雑誌『前進』を創刊した。その他の中心メンバーは荒畑寒村、高橋正雄、稲村順三、小堀甚二、板垣武男、岡崎三郎など。『前進』は版元の板垣書店の経営上の都合、および小堀甚二と向坂逸郎との間でソ連の性格や日本の再軍備問題をめぐって論争が起きたことにより1950年9月の38号をもって終刊となった。こうして小堀を除いたメンバーで社会主義協会が結成される運びとなった。版元の板垣武男と荒畑寒村はどちらの側にも組せず、社会主義協会には参加しなかった[1]。
初期[編集]
1951年5月に労農派の理論家の山川均、大内兵衛、向坂逸郎、労働運動指導者の太田薫、岩井章、高野実ら同人50余名で社会主義協会を結成し、1951年6月1日付で雑誌『社会主義』を創刊した。同人代表は山川と大内、その他の主要メンバーは清水慎三、岡崎三郎、高橋正雄など。同年に日本社会党が左派と右派に分裂した。1953年1月に左派社会党が綱領の作成を決定して綱領委員会を設け、委員長に協会の中心メンバーである稲村順三、委員に向坂逸郎、高橋正雄、清水慎三が選ばれた[1]。同年12月に対米従属論・民族闘争重視の綱領案「清水私案」の扱いや、向坂が編集発行の事務担当者・加藤長雄の退職を求めたことをめぐって対立が起き、高野実と清水慎三が協会を脱退した[2]。1954年1月に左派社会党は綱領を決定したが(いわゆる「左社綱領」)、翌年に社会党の再統一が決定され、左右両派が妥協した新綱領が発表された。協会は新綱領を強く批判したため社会党幹部との関係が冷え込んだが、労働組合の中には総評の太田派の勢力拡大を通して影響力を広げた[3]。
社会党再統一後[編集]
1958年3月23日に山川均が死去し、大内兵衛と向坂逸郎が同人代表となった。同年11月に運営委員会が設置され、大内と向坂が代表幹事となった[3]。山川の死後、協会は急速にソ連に傾斜していき、マルクス・レーニン主義の集団という性格を強めていった[4]。ソ連側も中ソ対立が深まる中で中国が日本共産党との関係を強めたため、協会を通して日本社会党に接近した[5]。
1959年に向坂の影響を受けた三池炭鉱労働組合(灰原茂雄・塚元敦義・宮川睦男ら)が中心となって闘われた三池争議が始まり、翌年に敗北したものの、協会は三池と安保闘争の中から生まれたといわれる日本社会主義青年同盟(社青同)の中に影響力を広げていった。1964年2月の社青同第4回大会では協会派を中心とする勢力が執行部を掌握し、「改憲阻止・反合理化の基調」の決議を採択した。1961年頃から江田三郎社会党書記長が唱える構造改革論が党内で台頭すると、江田と同じく鈴木派に属していた佐々木更三は、江田を追い落とすため社会党統一以来対立関係にあった協会との関係を修復した[6]。社会党の構造改革路線は1962年1月の第21回党大会で事実上放棄されることになり、1964年の第23回党大会・第24回党大会で採択された綱領的文書「日本における社会主義への道」(略称:道)の策定、1966年の第27回党大会で採択されたプロレタリア独裁を肯定する修正に協会派が大きな役割を果たした。
協会分裂[編集]
1967年6月の第8回全国総会で、規約第2条の「協会は世界の平和と日本の社会主義革命を達成するため、理論的・実践的な研究・調査・討議を行い、日本社会党、労働組合、農民組合、社青同、日本婦人会議の階級的強化に努力する」の内、「理論的・実践的な研究・調査・討議を行い」の削除を求める太田派と、これに反対する向坂派に分裂した[7]。水原輝雄事務局長、嶋崎譲九大教授ら太田派は実践を中心とする運動体を志向した。向坂派は協会を党内派閥化、別党コース化させようとするものだと批判し、社会党に影響を与える研究団体という性格を保持しようとした。規約第2条の改正は過半数で可決され、向坂逸郎は代表辞任を表明して大会から退場した。1967年8月9日に向坂派は『社会主義』編集委員会を発足させた[8]。8月12日に山本政弘、稲村稔夫、福田豊、鎌倉孝夫、篠藤光行の5中央常任委員が中央常任委員会への出席を拒否し、現在の協会から別れることを通告した[9]。8月13日に向坂派は社会主義協会再建準備会を発足させた。9月2日に向坂が協会に脱退通告し、『社会主義』再建1号が発刊された[8]。分裂時は少数派であった向坂派は総評の岩井章事務局長や社会党佐々木派の力を借りて、社会党の活動家の間で勢力を拡大し[10]、70年代には一般に社会主義協会といえば向坂派の社会主義協会(通称:向坂協会、社会主義協会向坂派)を指すようになった。太田派の社会主義協会(通称:太田協会、社会主義協会太田派)は1988年に機関誌名を『進歩と改革』に、1989年に組織名を日本社会主義者センターに変更し、社会民主主義を積極的に掲げるようになった。
1971年2月の社青同第10回大会で向坂派が執行部を掌握し、反戦派(解放派・第四インター派)を除名した。太田派は大会の開催に反対し、1971年5月に全国社青同再建協議会を結成、1973年2月に日本社会主義青年同盟全国協議会(社青同全国協、社青同太田派)に改称した。解放派は1971年9月に自派傘下の社青同(社青同解放派、解放派社青同)を結成した。以後の社青同は社会主義協会向坂派の影響力の強い組織となり、社青同向坂派、社青同協会派とも呼ばれるようになった。1973年暮の第12回全国大会で結成以来最大の同盟員数を記録した。社青同同盟員が労働組合に浸透するとともに、労働大学が発行する学習誌『まなぶ』の部数も拡大した[11]。
協会規制[編集]
1973年2月の社会党第36回党大会以降、協会の社会党に対する影響力は急速に拡大した。千葉県や福島県本部などでは協会が主導権を握り、党全国定期大会の代議員も協会系が3分の1を占めるまでに増加した[11]。協会の台頭に右派やそれまで協会と協力していた佐々木派は危機感を持ち、1974年に佐々木と江田が反協会の立場で和解した[12]。1977年2月の第40回党大会で協会派代議員が江田を吊るし上げ、直後に江田が離党・急死すると、世論も協会に対する反発を強めた。これを背景に総評も反合理化路線から労使協調路線に転換するため反協会派を支持した[13]。こうして1977年9月の第41回党大会では、協会の綱領的文書である「社会主義協会テーゼ」を、「理論研究集団(いわゆる研究会)の「研究綱領」にふさわしいものに改廃する」ことを求める中央執行委員会の方針が了承された[14]。また活動家層に対する権限集中への反省から、全国大会における代議員の3分の1は国会議員・党員知事・政令指定都市党員市長にすることが決議され[13]、協会の活動に歯止めをかけた(いわゆる「協会規制」)。これに前後して1975年に千葉県本部、1978年に福島県本部、1981年に東京都本部と、協会系の強い地方組織が協会系と反協会系に分裂した[11]。協会規制を受け、社会主義協会は1968年に決定した「社会主義協会テーゼ」を、1978年に改訂し名称を「社会主義協会の提言」に変更した[15]。
1982年に『社会主義』編集長の福田豊と協会の理論的指導者の1人鎌倉孝夫が『現代資本主義と社会主義像』(河出書房新社)を刊行し、ソ連型社会主義への批判、ユーロコミュニズムや西欧型社会民主主義の肯定的評価を通して協会を批判したため、左派は激しく非難を浴びせ、1984年に福田は『社会主義』編集長を辞任、他の研究者らとともに協会を離脱した。この騒動は1967年以来の2度目の分裂として話題になった[16]。福田をはじめとする協会派系の学者の西欧型社会民主主義路線への転向、1985年の向坂の死去[13]、総評の解散や社会主義体制の崩壊などにより協会は衰退していった。社会党は1986年1月の続開大会で「日本における社会主義への道」に代わり、西欧型社会民主主義路線の「日本社会党の新宣言」(略称:新宣言)を採択した。
社会党解体後[編集]
1996年1月、日本社会党は社会民主党に改称した。同年3月、村山内閣の自衛隊違憲論から合憲論への転換や党名変更に反発して離党した国会議員らが新社会党を結成した。同年9月、新党さきがけと社民党の一部の議員が民主党を結成し、協会員は3つの政党に所属が分かれた。主要メンバーは社民党に入り、次第に社民党所属の協会員と新社会党所属の協会員が対立するようになった[11]。1998年2月に佐藤保代表が召集した第31回総会に新社会党所属の協会員の多くが参加せず、同年3月に別の社会主義協会を「再建」した。新たな協会に参加したのは石河康国、岩中伸司、今村稔、上野建一、沖田和夫、近江谷左馬之介、長船俊雄、小林義昭、坂牛哲郎、柴戸善次、下藤芳久、千葉常義、塚本健、津野公男、津和崇、灰原茂雄、原野人、細川正、横堀正一、吉原節夫、渡辺和彦、阿部秀吉、吉井健一らで、坂牛哲郎・上野建一が代表となったため、「坂牛協会」「再建協会」とも呼ばれる[17]。機関誌は『科学的社会主義』(月刊)。従来の社会主義協会は佐藤保が代表であるため、「佐藤協会」とも呼ばれるようになった。坂牛協会内部では、2010年参院選における新社会党・原和美副委員長の社民党からの立候補、規約違反の二重党籍をめぐり、原の社民党からの立候補を支持する協会二役と、選挙推進はマルクス・レーニン主義から社会民主主義への転向であり、政党への介入は理論研究団体から派閥へと協会の性格を変えるものだとする批判者の間で論争が起きた。最終的に批判者たちは坂牛協会を退会し、2014年2月に別の社会主義協会を「再建」した[11]。細川正が代表となったため「細川協会」とも呼ばれる。機関誌は『研究資料』(隔月刊)。2017年には滝野忠・原野人も坂牛協会を退会し、『旬刊社会通信』誌上で坂牛協会の国家独占資本主義が新自由主義に移行したという見解やベーシックインカムの提起などを批判している。
歴代代表[編集]
- 佐藤協会
- 坂牛協会
- 細川協会
- 2014年 - 細川正
協会派の国会議員[編集]
衆議院議員[編集]
- 木原実(在任期間:1967-1980)
- 山本政弘(在任期間:1967-1986)
- 高沢寅男(在任期間:1972-1993)
- 小川仁一(在任期間:1976-1979、1983-1986)
- 上野建一(在任期間:1983-1986、1990-1992)
- 有川清次(在任期間:1990-1993)
- 加藤繁秋(在任期間:1990-1993)
- 小森龍邦(在任期間:1990-1996)
- 佐藤恒晴(在任期間:1990-1996)
参議院議員[編集]
出典[編集]
- ↑ a b 社会主義協会の提言2 労働者運動資料室
- ↑ 社会主義の一〇年 労働者運動資料室
- ↑ a b 社会主義の一〇年2 労働者運動資料室
- ↑ 「政治家の人間力ー江田三郎への手紙」 メールマガジン「オルタ広場」
- ↑ 岡田一郎『日本社会党―その組織と衰亡の歴史―』新時代社、2005年、113頁
- ↑ 岡田一郎『日本社会党―その組織と衰亡の歴史―』新時代社、2005年、99頁
- ↑ 岡田一郎『日本社会党―その組織と衰亡の歴史―』新時代社、2005年、135頁
- ↑ a b 「社会主義協会20年の歩み――座談会(1)」太田協会機関誌『社会主義』第236号、1971年8月
- ↑ 『社会運動通信』987号、1967年9月8日
- ↑ 岡田一郎『日本社会党―その組織と衰亡の歴史―』新時代社、2005年、136頁
- ↑ a b c d e 細川正「証言 戦後社会党・総評史 もう一つの日本社会党史――党中央本部書記局員としてマルクス・レーニン主義の党を追求 細川 正氏に聞く(PDF)」『大原社会問題研究所雑誌』716号、2018年6月
- ↑ 岡田一郎『日本社会党―その組織と衰亡の歴史―』新時代社、2005年、154頁
- ↑ a b c 岡田一郎『日本社会党―その組織と衰亡の歴史―』新時代社、2005年、158頁
- ↑ 党規約に関する件 労働者運動資料室
- ↑ 社会主義協会の提言 労働者運動資料室
- ↑ 「表現の自由」研究会編著『現代マスコミ人物事典』二十一世紀書院、1989年、501-502頁
- ↑ 社会主義協会第三一回再建総会宣言(附:社会主義協会再建運動に合流しよう) 労働者運動資料室
関連項目[編集]
- カテゴリ:社会主義協会向坂派の人物
- カテゴリ:社会主義協会太田派の人物
- 中村建治
- 国鉄労働組合
- 民同
- 民主社会主義連盟 - 社会党右派系の思想団体
- 民主社会主義研究会議 - 民社党系の思想団体