岡崎三郎
岡崎 三郎(おかざき さぶろう、1907年3月20日 - 1990年3月21日[1])は、経済学者[2]、経済評論家[1]。兄は経済学者の岡崎次郎[2]。
経歴[編集]
北海道河西郡帯広町生まれ。東京、横浜、名古屋、大阪に引っ越す。大阪府立天王寺中学校、大阪高等学校理科丙類卒業。1926年東京帝国大学文学部仏文科に入学。出身高校別に組織された社会科学研究会の大高読書会や大森義太郎をチューターとする新人会の研究会、七生社糾弾のために新人会や学友会の各部が連合した委員会に参加。東大の文芸同人雑誌の大部分が参加した『大学左派』の編集に高間芳男(のちの高見順)などと参加。1929年卒業[3]。
1931年日本電報通信社大阪支社記者。経済記事を書くようになり、高校以来の友人である楫西光速のすすめで『資本論』を読む。東大在学中に経済学者の中西寅雄の親類となり、中西の紹介で向坂逸郎と知り合う。1934年退職。財団法人東亜経済調査局から日本資本主義発達史の研究を委嘱された土屋喬雄の手助けをする。この間、向坂邸で開かれていた資本論研究会に参加。1935年財団法人東亜経済調査局局員、満鉄経済調査会嘱託。1936-37年上海事務所に勤務。1937年12月に人民戦線事件に連座して検挙され、1938年12月に処分留保のまま釈放。労農派グループのメンバーではなかったが、労農派の雑誌『先駆』に執筆したこと、『日本資本主義発達史概説』(土屋喬雄共著、有斐閣、1937年)で労農派の立場をとったことが罪状にあげられたという。1939年東亜経済調査局の満鉄への吸収合併に伴い満鉄東亜経済調査局局員。調査局が東南アジアの調査研究をすることになり、インド担当の主査となる。『改造』『中央公論』などの雑誌に中国問題に関する文章を書いたり、明治大学で中国経済、法政大学で中国の財政に関する講義をしたりもした。横浜事件では警察署に証人として喚問され、暴行も受けた[3]。
敗戦後は文筆業に従事[3]。1946年に向坂逸郎らが設立した歴史科学研究所(のち歴史科学研究会)の経済部門に参加[3][4]。河出書房の肝いりで1946年から1年ほど続いた資本論研究会に出席。相原茂によると、12名の出席者のうち、久留間鮫造、大内兵衛、有沢広巳、向坂逸郎、宇野弘蔵、土屋喬雄、高橋正雄が主役格で、末永茂喜、岡崎三郎、対馬忠行、鈴木鴻一郎、相原茂は下働きとして問題の提起や要約の作成などを準備した[5]。岡崎によると、宇野、相原、鈴木とともに速記録の整理を担当した[3]。1947年に山川均、荒畑寒村、高橋正雄、稲村順三、小堀甚二、板垣武男、向坂逸郎らとともに労農派の雑誌『前進』(1950年まで刊行)の中心メンバーとなる[6]。1947年から大内兵衛、向坂逸郎、宇野弘蔵、相原茂、鈴木鴻一郎とともに四季報『唯物史観』(4号まで刊行)を編集[3]。
1949年読売新聞社論説委員。1953年社会タイムス社編集局長(同年中に退社)。1966年北九州大学教授[3]。この間、1951年に社会主義協会の結成に参加し、山川均、大内兵衛、太田薫、岩井章、高野実、清水慎三、高橋正雄、向坂逸郎らとともに主要メンバーとなる[6]。1953年に高野実の脱退、編集発行の事務担当者であった加藤長雄の退職に伴い社会主義協会『社会主義』編集長(1962年まで)[3][7][8]。社会主義協会事務局長を兼務[9]。1955年中央選挙管理委員会予備委員(任期3年)。1955年武蔵大学非常勤講師(2年)[3]。1958年社会主義協会常任幹事[7]。1962年世界労連の会議に総評がオブザーバーとして参加するため宝田善とともにヨーロッパを訪問。1964年中央選挙管理委員会委員[3]。読売新聞従業員組合組合史出版委員会編『組合史(第1・2巻)』(読売新聞従業員組合、1956-57年)、日本労働組合総評議会編『総評十年史』(労働旬報社、1964年)、国鉄労働組合編『国鉄労働組合20年史』(労働旬報社、1967年)[3][8]、合成化学産業労働組合連合編『合化労連二十年史』(合成化学産業労働組合連合、1971年)の執筆・編集を担当[8]。
1972年日本福祉大学教授。1977年定年退職[10]。この間、中央選挙管理委員会副会長を務めた[11]。退職後はフランス社会主義に関する本を2冊執筆した[10]。
人物[編集]
土屋喬雄門下の日本経済史研究者[10]。代表作は『日本資本主義発達史概説』(土屋喬雄共著、有斐閣、1937年)と『資本制経済発展の諸段階』(河出書房、1948年)[3][12]。大内力は『日本資本主義発達史概説』について「昭和十二年という時点でいえば、これは当時のマルクス経済学が、日本資本主義の研究について、「講座派」の偏向を克服しながら到達した最高の水準をしめしているといってもいいだろう」と評している[12]。『資本制経済発展の諸段階』は1954年に『日本資本主義の発展段階』(河出書房)に改題されて刊行され、1979年に書き改められて社会主義協会出版局から刊行された。大間知啓輔は『資本制経済発展の諸段階』について宇野弘蔵が『経済政策論』(弘文堂、1954年)で提起した段階論をはじめて創造したのは岡崎ではないかと思うと評している[10]。
著書[編集]
単著[編集]
- 『インドの農産資源』(東亞經濟研究所[東亞經濟叢書]、1942年)
- 『日本資本主義研究講座 3 資本制經濟發展の諸段階』(河出書房、1948年)
- 『日本資本主義の発展段階』(河出書房[日本近代史叢書]、1954年/社会主義協会出版局、1979年)
- 『經濟學読本』(河出書房、1948年)
- 『社会主義とは何か』(労働大学通信教育部[労働大学通信教育講座]、1960年)
- 『総評15年――労働運動の高度成長』(労働旬報社、1965年)
- 『社会主義史論ノート』(ありえす書房、1979年)
- 『フランス社会党史序説』(ありえす書房、1982年)
共著[編集]
- 『日本資本主義發達史概説』(土屋喬雄共著、有斐閣[日本経済研究叢書]、1937年/有斐閣、1948年)
- 『独占資本と呼ばれるもの』(長坂聡共著、労働大学通信教育部[労働大学通信教育講座]、1961年)
- 『日本の産業別組合――その生成と運動の展開』(筆者代表、総合労働研究所、1971年)
編著[編集]
- 『現代日本資本主義大系 6 政治』(編、弘文堂、1958年)
訳書[編集]
- ケネス=スコット=ラトウレット『支那の歴史と文化(上・下・別巻)』(生活社、1939-1941年)
- 方顯廷『支那工業組織論』(生活社、1939年)
- バクストン『支那』(中央公論社、1943年)
- カール・マルクス『哲學の貧困』(黄土社、1947年)
- 『マルクス・エンゲルス選集 第9巻 ゴータ綱領批判、家族、私有財産と国家の起原』(佐藤進、都留大治郎、近江谷左馬之介、長坂聰共訳、新潮社、1956年)
- 『世界思想教養全集 12 マルクスの経済思想』(岡崎次郎訳者代表、河出書房新社 1962年)
- 『世界の大思想 第Ⅱ期 マルクス 経済学・哲学論集』(高島善哉訳者代表、河出書房、1967年)
出典[編集]
- ↑ a b 20世紀日本人名事典 「岡崎三郎」の解説 コトバンク
- ↑ a b 向坂逸郎「岡崎三郎君」『商経論集』第3巻第3・4号、1968年3月
- ↑ a b c d e f g h i j k l 岡崎三郎、近江谷左馬之介「ロマンチック時代――あるいは遊学60年」『商経論集』第3巻第3・4号、1968年3月
- ↑ 長坂聰「一途の人――鈴木鴻一郎先生を悼む」『社会主義』第212号、1983年6月
- ↑ 相原茂「資本論研究会と久留間先生」『研究資料月報』第294号、法政大学大原社会問題研究所、1983年3月
- ↑ a b 社会主義協会の提言2 労働者運動資料室
- ↑ a b 社会主義の一〇年2 労働者運動資料室
- ↑ a b c 岡崎三郎『日本資本主義発展の諸段階』社会主義協会出版局、1979年)
- ↑ 上野建一「証言 : 戦後社会党・総評史 社会主義政党の確立をめざして : 上野建一氏に聞く(PDF)」『大原社会問題研究所雑誌』第698号、2016年12月
- ↑ a b c d 大間知啓輔「岡崎三郎先生を偲ぶ――岡崎三郎先生の生涯」『社会主義』第313号、1990年8月
- ↑ 小島健司「岡崎三郎先生を偲ぶ――『総評史』編集者として」『社会主義』第313号、1990年8月
- ↑ a b 大内力「岡崎さんの日本資本主義発達史」『商経論集』第3巻第3・4号、1968年3月