国鉄労働組合
国鉄労働組合(こくてつろうどうくみあい)は、JR各社(旧国鉄)とその関連企業で働く労働者を組織する労働組合。略称は国労(こくろう)。英訳名はNational Railway Workers' Union、略称はNRU。全国労働組合連絡協議会(全労協)、全日本交通運輸産業労働組合協議会(交運労協)、国際運輸労連(ITF)に加盟している。本部所在地は東京都港区新橋5-15-5 交通ビル7F。
概要[編集]
旧総評・公労協の中核組織。総評事務局長を務めた岩井章、富塚三夫の出身母体。日教組・自治労とともに「総評御三家」の一角を占めた(国労・全逓・全電通、または国労・日教組・全逓とすることもある)。旧国鉄最大の労働組合だったが、1987年の国鉄分割・民営化の過程で切り崩されて少数組合となった。1989年の総評解散後は連合に合流せず、全労協結成の中心的役割を担った。
1981年4月時点の国鉄における各労働組合の組織人員は、国労が243,000人、鉄道労働組合(鉄労)が45,000人、国鉄動力車労働組合(動労)が44,000人、全国鉄施設労働組合(全施労)が3,000人、全国鉄動力車労働組合連合会(全動労)が3,000人。全職員約40万8,500人のうち組合加入者は約34万人(『昭和56年度 運輸白書』)[1]。2019年3月時点のJRにおける各労働組合の組織人員は、日本鉄道労働組合連合会(JR連合)が83,000人、全日本鉄道労働組合総連合会(JR総連)が28,000人、国労が6,200人、その他・未加入が40,100人(JR連合調べ)[2]。
国労の内部には「学校」と呼ばれる労働組合内部グループ(セクト、派閥)が存在する。最大の「学校」は現在の社会民主党員協議会(旧社会党員協議会。民同、民同左派、党員協とも)[3]。1960年代末に民同左派内部から「派閥内派閥」として協会派(社会主義協会派)が生まれ[4]、1967年に協会派は太田派と向坂派に分裂した。沼津革同の山梨幸夫は「かつて1970(昭和45)頃の国労青年部にはグループが八派あるといわれ、向坂、大田、革同、人力、解放、主体と変革、中核、革マルという俗称で呼ばれていた」と述べている[3]。元総評事務局長の富塚三夫はマル生反対運動の「当時,中核派とか革マル派とか,それこそ七つの左翼集団があった」と述べている[5]。
歴史[編集]
結成[編集]
敗戦後、国鉄に地域別・職能別の労働組合が続々と結成され、1946年2月27日に石川県片山津温泉で国鉄労働組合総連合(国鉄総連合)が結成された[6]。国鉄全従業員の96%、50万8656人を組織[7]。初代委員長は斉藤鉄郎。国鉄総連合は1947年6月4日の伊豆長岡大会で解散し、6月5日に単一体に改組して国鉄労働組合(国労)が結成された[6]。初代委員長は加藤閲男、書記長は藤井専蔵[8]。当初は階級的・戦闘的な労働組合ではなく、共産党や戦前の社民の運動に参加していた人々から当局・職制に近い人々までが参加していたが、1946年の人員整理反対闘争や1947年の2・1ストの闘争方針などをめぐって、斉藤鉄郎・星加要ら当局・職制に近い右派と鈴木市蔵・伊井弥四郎ら共産党系の間で内部対立が始まった[6]。1947年11月に斉藤・星加らが国鉄労働組合反共連盟(国鉄反共連盟)を結成し、1948年3月に国鉄労働組合民主化同盟(国鉄民同)に改称した。民同派と共産系の対立が深まる中、1948年4月に国労の団結を維持するため金政大四郎・高橋儀平ら容共左派が国鉄労働組合革新同志会(革同)を結成し、国労は共産・民同・革同の3派に分立した。
民同派の主導権確立[編集]
公務員の労働基本権を制限した政令201号[8]、1949年の行政機関職員定員法に基づく人員整理、下山事件・三鷹事件・松川事件など不可解な事件を理由とする攻撃[9]、被解雇者を組合役員に認めないとする「指令0号」[7]で左派勢力は後退し、1949年7月の第7回臨時大会で民同派が主導権を確立した[8]。1950年7月の日本労働組合総評議会(総評)結成の中心的役割を担ったが[8]、朝鮮戦争下に総評が全面講和・中立堅持・軍事基地提供反対・再軍備反対の平和四原則を採択して左旋回すると、斉藤鉄郎・星加要ら民同右派と岩井章・横山利秋ら民同左派の間で内部対立が始まった。1951年6月に新潟市公会堂で開催された第10回大会で星加が提案した「愛国労働運動」を主題とした運動方針案が113対292の大差で否決、横山が提案した平和四原則を盛り込んだ運動方針案が可決され、民同左派が勝利した[6]。敗北した右派は同年9月に大宮で国鉄労働組合民主化同盟(新生民同)を結成し、のちの鉄労の母体となった[6]。国労の主導権を握った民同左派は1956年8月に国鉄民同を解散し、同年10月に日本社会党国鉄党員協議会(国鉄党員協)を結成した。革同は1950年代後半に共産党系のフラクションとなり、細井宗一の指導のもと民同左派と蜜月関係を築いた。
動労・鉄労・全施労の分裂[編集]
1951年5月に機関区関係労働者が脱退して日本国有鉄道機関車労働組合(機労。中立労連に加盟)を結成し、1959年7月に国鉄動力車労働組合(動労。総評に加盟)に改称した。当初は機関士の職能意識に基づく穏健な職能組合であったが、1960年代以降は国労とともに戦闘的な労働運動を展開した。
1957年の国労新潟闘争後、国労の急進的な指導方針に反対する組合員が脱退し、9月に国鉄新潟地方労働組合、11月に国鉄職能別労働組合連合会(国鉄職能労連)を結成した。1961年9月には新潟・大阪・金沢・静岡・仙台・東京の地方労組が国鉄地方労働組合総連合(国鉄地方総連)を結成した。1962年12月に職能労連と地方総連が新国鉄労働組合連合(新国労)を結成し、1968年10月に単一化して鉄道労働組合(鉄労。同盟に加盟)となった。
1971年4月にマル生運動を契機に施設関係労働者が脱退して全国鉄施設労働組合(全施労。新産別に加盟)を結成した。国労は動労・鉄労・全施労の分裂後も依然として国鉄最大の労組、総評・公労協の中核組織であり続けた[10]。
マル生運動、スト権スト[編集]
1949年6月に国鉄は公共企業体へと移行し、公共企業体等労働関係法(公労法)が適用され、争議権が制限された代わりに公共企業体等労働委員会(公労委)が設置された。当初は公労委の仲裁裁定の完全実施を要求していたが、国鉄当局は財政難を理由に裁定を完全実施しなかった。このため国労は次第に強硬な方針を打ち出すようになり、1952年に初の順法闘争を開始し、同時に職場闘争も展開するようになった[11]。1953年の公共企業体等労働組合協議会(公労協)結成後は、1960年の安保反対の政治スト、1961年春闘の半日ストライキ指令(中止)、ベトナム反戦闘争などで注目を浴びた[12]。闘争の過程で力を得た国労は1968年7月に職場単位で労使交渉を行う現場協議制度の確立を勝ち取り、現場管理者を大勢の組合員が吊し上げるという事態も発生した[13]。こうした国労・動労の「体質改善」を図るべく、1969年に国鉄総裁に就任した磯崎叡をはじめとする国鉄当局は生産性向上運動(マル生運動)を開始した。現場管理者の激励、生産性向上教育、国労・動労組合員への組合脱退工作、鉄労加盟勧奨などが展開されたが、1971年10月に公労委が不当労働行為を認定[14]、磯崎国鉄総裁が国会で陳謝し、当局の全面的な敗北に終わった。反マル生闘争の勝利に力を得た国労・動労は、1975年11月26日に他の官公労とともに「スト権奪還統一スト」(スト権スト)に突入した。8日間にわたって国鉄のダイヤをマヒさせたものの、モータリゼーションの進展で日本経済は大きな影響を受けることはなく、スト権付与に前向きだったとされる三木武夫首相はスト権容認を拒否する声明を発表したため、12月3日にスト中止に追い込まれた。
国鉄分割民営化[編集]
1981年に第二次臨時行政調査会(第二次臨調、土光敏夫会長)が発足し、1982年に基本答申で「国鉄は5年以内に分割民営化すべき」と表明した。国労は国鉄分割民営化に絶対反対の立場をとり、1986年1月に当局が提案した「労使共同宣言」への署名を拒否した。これを受けて当局は国労との「雇用安定協約」を破棄したため、雇用不安から組合員の脱退が相次いだ。同年4月に革マル派系とみられる組合員が脱退して真国鉄労働組合(真国労)を結成した。同年7月に当局は全国に人材活用センターを設置し、余剰人員とされた1万5000人の職員を送り込んだ。その大半は国労の組合員で、草むしりやペンキ塗り、文鎮作りなど本来の業務とは関係のない業務に従事させられた。マスコミも国鉄職員の「横柄な接客態度」や「職場規律の荒廃」を連日報道して国鉄や国鉄職員を非難した。当局は再び「労使共同宣言」への署名を持ちかけたが、国労は1986年10月に修善寺温泉で開催された第50回臨時大会で山崎執行部(社会党主流派+太田派連合)が提案した「労使共同宣言」締結案を賛成101票、反対183票の大差で否決し、総辞職した執行部に替わり六本木新執行部(向坂協会派+革同連合)を選出した。執行部を追われた旧主流派は社会党・総評の支援のもと国労を脱退して各地本単位に鉄産労を結成し[6]、1987年2月にその連合体として日本鉄道産業労働組合総連合(鉄産総連。組合員数3万5000人)を結成した[15]。この時点で前年に20数万人いた国労の組合員は約4万人に減少していた[10]。
1987年3月に公労協を脱退[10]。同年4月に国鉄はJR北海道・JR東日本・JR東海・JR西日本・JR四国・JR九州・JR貨物の7社に分割・民営化されたが、国労組合員の採用希望者中5000名が不採用となった[10]。また分割民営化と同時に国鉄の債務返済や旧国鉄職員の再就職の促進を業務とする国鉄清算事業団が発足したが、1990年4月に「現地、現職採用」などを求めていた国労・全動労・千葉動労の組合員1047名が国鉄清算事業団からも解雇された。1989年11月の総評解散後は同年12月の全国労働組合連絡協議会(全労協)結成の中心的役割を担い、その中核組織となっている[10]。
国鉄闘争・職場復帰断念へ[編集]
解雇された元国鉄職員による法廷や労働委員会の闘争は2009年の民主党政権発足まで実に23年も続き、この間の闘争のための資金は「こくろうラーメン」などの物販活動で賄っていた。
2009年、旧国鉄から債務を引き継いだ独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構が、和解を拒否した元職員を除き不当労働行為に対する和解金を払うことで、金銭面での決着がついた。しかし、JRへの雇用を求めた部分は「JRに雇用努力を求める」に止まり、新会社による組織体制の固まったJR各社はそろって元国鉄職員の雇用を拒否したため、雇用面で闘争当事者の要求を満たすことはできなかった。
雇用面での事実上の解決放棄策に不服の一部の元国労組合員や動労千葉などは国鉄闘争全国運動(「国鉄分割・民営化に反対し、1047名解雇撤回闘争を支援する全国運動」)を展開して令和時代になっても闘争を継続している。
出典[編集]
- ↑ 昭和56年度 運輸白書 国土交通省
- ↑ JR連合とは JR連合
- ↑ a b はじめに 鉄路の思い
- ↑ 鈴木玲「組合内政治と組合路線――国労の事例研究を通じた理論的考察」『労働社会学研究』1号、1999年
- ↑ 富塚三夫「証言 戦後社会党・総評史 総評運動と社会党と私 : 富塚三夫氏に聞く(下)」『大原社会問題研究所雑誌』679号、2015年5月
- ↑ a b c d e f 六本木敏、鎌倉孝夫、村上寛治、中野洋、佐藤芳夫、高島喜久男『対談集 敵よりも一日ながく――総評解散と国鉄労働運動』社会評論社、1988年
- ↑ a b 国労の軌跡 国鉄労働組合本部
- ↑ a b c d 現代革命運動事典編集委員会編『現代革命運動事典』流動出版、1981年
- ↑ 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説 コトバンク
- ↑ a b c d e 岩崎馨、降籏英明『春闘の歴史と課題――労働組合の変遷とともに』日本生産性本部生産性労働情報センター、2018年
- ↑ 新川敏光「国労にみる戦後左派労働運動の軌跡と悲劇」『法政理論』27巻1号、新潟大学法学会、1994年
- ↑ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説/日本大百科全書(ニッポニカ)の解説 コトバンク
- ↑ 牧久『昭和解体――国鉄分割・民営化30年目の真実』講談社、2017年
- ↑ 国鉄マル生[政]1971.10.5『社会・労働運動大年表』解説編
- ↑ 高木郁朗『ものがたり現代労働運動史1 1989~1993――世界と日本の激動の中で』明石書店、2018年
関連文献[編集]
- 国鉄労働組合編『国鉄労働組合20年史』(労働旬報社、1967年)
- 有賀宗吉『国鉄の労政と労働運動(上・下)』(交通協力会、1978年)
- 国鉄労働組合編『国鉄労働組合40年史』(労働旬報社、1986年)
- 鎌田慧『国鉄処分』(柘植書房、1986年)
- 秋山謙祐『語られなかった敗者の国鉄改革――「国労」元幹部が明かす分割民営化の内幕』(情報センター出版局、2009年)
- 升田嘉夫『戦後史のなかの国鉄労使――ストライキのあった時代』(明石書店、2011年)
- 二瓶久勝『国鉄闘争の真実――共闘会議議長としての総括そして次の闘いへ』(スペース伽耶、発売:星雲社、2012年)
- 国鉄闘争を継承する会編『国鉄闘争の成果と教訓』(スペース伽耶、発売:星雲社、2013年)
- 和田弘子『もうひとつの国鉄闘争――非正規差別、女性差別と闘って』(三一書房、2013年)