反戦青年委員会

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反戦青年委員会(はんせんせいねんいいんかい)は、ベトナム戦争反対と日韓条約批准阻止の闘争目標に賛同する青年学生組織・青年労働者による共闘組織。正式名称は「ベトナム戦争反対、日韓条約批准阻止のための青年委員会」。

概要[編集]

秋の国会での日韓基本条約批准を前にして、1965年8月30日社会党青少年局、総評青年対策部、社青同の呼びかけで結成された。当初は中央に団体加盟制の全国反戦青年委員会(全国反戦)、その下に団体加盟制の都道府県反戦、団体加盟制の地区反戦、個人加盟制の職場反戦という形で構成されが、のちに個人加盟制を併用した地区反戦や個人加盟制の地区反戦、マスコミ反戦連合委員会(マスコミ反戦)のような産別反戦も生まれた。全国反戦には社青同や総評傘下の労組青年部が参加し、参加団体の代表によって運営委員会が構成された。事務局は社会党青少年局、総評青年対策部、社青同によって構成された。またオブザーバーとして三派系全学連革マル派系全学連、統社同系のベトナム反戦自治会共闘会議の3団体が参加した。結成総会には民青も参加していたが、新左翼勢力が参加していたために不参加を決め、1965年9月3日に「安保反対青学共闘会議の再開をめざす青年学生代表者会議」を結成した。

日韓闘争後は活動が低迷していたが、70年安保を前にして再び活発化した。1967年8月の広島反戦集会で「自立・創意・団結」の組織原則を決定した。1969年4月に11県反戦の呼びかけで全国反戦が再建され、埼玉県反戦の村上明夫社青同構造改革派)と宮城県反戦の今野求第四インター)が世話人に選出された(同年に村上は長崎県反戦の鈴木達夫主体と変革派)に交代)。次第に社会党・総評の統制を脱し、新左翼勢力との協力関係を深めるとともに、砂川闘争、羽田闘争、佐世保闘争、成田闘争、王子米軍野戦病院反対闘争、新宿騒乱事件、1969年の4.28沖縄デー、10.21国際反戦デーなど急進的な街頭闘争を展開した。そのため、総評は1969年7月の第38回大会で全国反戦の凍結を決定し、社会党は1970年4月の第33回大会で反戦青年委員会との絶縁を決定した。1970年に全国反戦事務局長の高見圭司解放派指導者の佐々木慶明が社会党から除名されるなど、社会党・社青同からの「反戦パージ」「革労協パージ」が行われた。1970年以降の反戦青年委員会は新左翼勢力主導の運動となり、1972年に諸党派の対立で全国反戦が事実上活動を停止してからは党派別に系列化された運動となった。2023年時点では少なくとも中核派、革マル派、革労協主流派革労協反主流派が反戦青年委員会名義での活動を行っている。

関連項目[編集]

関連文献[編集]

  • 高見圭司編著『反戦青年委員会――70年闘争と青年学生運動』(三一新書、1968年)
  • 陶山健一『反戦派労働運動』(亜紀書房、1969年)
  • 菊池勇義『素顔の反戦青年委員会――一九七〇年の焦点』(日本ソノ書房、1969年)
  • 沖縄県反戦青年委員会編『全軍労反戦派』(三一新書、1970年)
  • 立花隆『中核VS革マル』(講談社、1975年/上・下、講談社文庫、1983年)
  • 寺岡衛著、江藤正修編『戦後左翼はなぜ解体したのか――変革主体再生への展望を探る』(同時代社、2006年)
  • 江藤正修編『資料集 戦後左翼はなぜ解体したのか』(同時代社、2006年)
  • 高見圭司『NO!9条改憲・人権破壊――反戦青年委員会をつくった軍国少年』(明石書店、2007年)
  • 中野正夫『ゲバルト時代――Since 1967〜1973』(バジリコ、2008年/ちくま文庫、2011年)

参考文献[編集]