岩井章
岩井 章(いわい あきら、1922年4月25日 - 1997年2月18日)は、労働運動家。元・国鉄労働組合(国労)企画部長、日本労働組合総評議会(総評)事務局長。
経歴[編集]
長野県松本市で半貧農、半日雇労働者の貧しい家に生まれる[1]。1937年田川高等小学校卒業。松本自動車会社給仕を経て[2]、同年12月国鉄上諏訪機関区に就職し、機関助士から機関士へと進む[1]。鉄道教習所卒[3]。1943年中国に出征。1946年1月復員して上諏訪機関区に復帰。労働運動に参加し、同年暮には国労甲府支部の専従となる[1]。1947年4月日本社会党に入党[2]。同年11月国鉄労働組合反共連盟の結成に参加(1948年3月国鉄労働組合民主化同盟に改称)。国労の中で頭角を現し、1951年1月の中央委員会で本部執行委員(共闘部長)に選出された[1]。同年3月の第2回大会で総評が朝鮮戦争下に「全面講和・中立堅持・軍事基地提供反対・再軍備反対」の平和四原則を採択して左旋回すると、国鉄民同では斉藤鉄郎委員長、星加要副委員長ら民同右派と、岩井章共闘部長、横山利秋企画部長ら民同左派が対立するようになり、6月の国労第10回大会(新潟大会)で星加が提案した「愛国労働運動」を主題とした運動方針案が113対292の大差で否決、横山が提案した平和四原則を盛り込んだ運動方針案が可決され、民同左派が勝利した[4][5]。日教組の平垣美代司、全逓の宝樹文彦と「三角同盟」を結成し、1951年9月に右派の民労研発足に対抗して発足した労働者同志会の中心となり[6]、その代表世話人に選出された[7]。1952年7月の国労第11回大会で企画部長となり、同大会で執行部入りした革同の細井宗一とコンビを組んだ[8]。1952年、1953年の年末闘争で初めて特急「つばめ」を止め、1954年に解雇処分を受けた[6]。
1953年に労働者同志会が「平和勢力論」の立場に立つ平垣美代司、石黒清、北川義行、市川誠、清水慎三ら高野派と、「第三勢力論」の立場に立つ太田薫、岩井章、宝樹文彦、原茂ら反高野派に分裂[9]。1955年7月の総評第7回大会で高野実の5選を阻止し、33歳で総評事務局長に選出された。1958年7月の総評第10回大会で議長に選出された太田薫と連携して「太田-岩井ライン」を形成し、春闘方式を定着させた。また砂川闘争、警職法反対闘争、安保闘争、三池闘争を指導した。思想的には労農派マルクス主義に近く[6]、1951年6月の創立時から社会主義協会の会員だった[10]。総評の社会党支持を守り、「社会党・総評ブロック」を堅持しながらも社共統一戦線路線を推進した。1968年と1969年にレーニン平和賞を受賞した[6]。
1970年8月に総評事務局長を退任した後も、国労、総評、社会党に大きな影響力を持った[11][12]。1971年5月に国際労働運動研究協会を設立し会長に就任[13]。総評解体・連合への統一に反対し、1981年6月に総評3顧問(太田薫・岩井章・市川誠)で「労戦統一に関する要望書」を発表。1983年3月に労働運動研究センター(労研センター)を設立し、1989年の全労協発足に尽力した[11][14]。1987年9月に総評幹事会は3人を顧問に推薦せず、総評顧問を事実上解任された[14]。日ソ労働者交流、北朝鮮との交流ルート開拓、朝鮮の自主統一運動への支援にも取り組んだ[15]。
著書[編集]
単著[編集]
- 『日本労働運動の基本戦略』(労働旬報社、1964年)
- 『労働運動の長期路線』(労働旬報社、1967年)
- 『事務局長日記――労働運動を強めるために』(社会新報、1968年)
- 『総評とともに』(読売新聞社、1971年)
- 『国民春闘発展への道――大巾賃上げ獲得の方法』(青也書店[労使関係叢書]、1975年)
- 『統一戦線論』(毎日新聞社、1976年)
- 『日本労働運動論』(日本社会党中央本部機関紙局、1979年)
- 『階級的労働運動論――左派大結集をめざして』(国際労働運動研究協会、1981年)
- 『労働運動の右傾化に抗して――階級的労働運動の再構築をめざす活動家のための指針』(国際労働運動研究協会、1982年)
- 『反独占・反軍拡・反差別の闘い――階級的労働運動の反撃』(国際労働運動研究協会、1983年)
- 『ひとすじの道50年』(国際労働運動研究協会、1989年)
- 『職場こそ戦場――反独占・平和の闘い』(編集刊行委員会編、国際労働運動研究協会、1998年)
共著[編集]
- 『労働者――総評・全労・新産別の主張』(和田春生、細谷松太、江幡清共著、日本労働協会[JIL文庫]、1959年)
- 1961年版『労働者――総評・全労・新産別の主張 1961年版』(和田春生、細谷松太、江幡清共著、日本労働協会[JIL文庫]、1961年)
- 『勤労者の生活状態』(宝田善共著、労働大学通信教育部[労働大学通信教育講座]、1961年)
- 『我ら大正っ子 第2集』(藤間紫、田中角栄、力道山、牛山善政共著、徳間書店[Human books]、1961年)
- 『これからの労働運動を語る――階級的労働運動の構築のために』(篠藤光行共著、国際労働運動研究協会[労働文庫]、1975年)
- 『直言 総評三顧問 日本労働運動再生への構想』(太田薫、市川誠、岩井章〔他〕著、柘植書房、1983年)
- 『大失業時代の労働運動――労働組合の再生と復権』(中野洋共著、社会批評社、1994年)
編著[編集]
- 『新しい中国・新しい人間――日本労働者訪中代表団の訪中メモ』(編著、労働文庫、1971年)
- 『階級的労働運動の要綱――戦後労働運動の一総括』(編著、国際労働運動研究会出版局[労働文庫]、1972年)
- 『労働者階級と統一戦線』(編著、国際労働運動研究会出版局[労働文庫]、1973年)
- 『総評労働運動の歩み』(編著、国際労働運動研究協会、1974年)
- 『現代の朝鮮問題』(編著、十月社、1980年)
- 『階級的労働運動への道――70年代労働運動の総括と80年代労働運動への提言』(灰原茂雄共編著、社会通信社、1980年)
- 『労働運動と平和運動』(篠藤光行共編著、十月社、1980年)
- 『日本の社会主義をさぐる』(御園生等共編著、国際労働運動研究協会、1980年)
- 『反撃への道――労働運動の右傾化に抗して』(灰原茂雄共編著、社会通信社、1981年)
- 『総評の再生――階級的労働運動の課題』(編著、国際労働運動研究協会、1982年)
- 『反合理化闘争の理論と実践』(灰原茂雄共編著、社会通信社、1983年)
- 『転換する中国』(編著、十月社、1984年)
- 『危機にたつ総評――行革攻撃と労働運動』(太田薫、市川誠共編著、社会評論社、1985年)
- 『社会党と総評』(編著、十月社、1988年)
- 『自治労運動と労戦統一』(宮部民夫共編著、十月社、1989年)
- 『続 自治労運動と労戦統一』(宮部民夫共編著、十月社、1990年)
- 『護憲読本』(小林孝輔、國弘正雄共編著、えるむ書房、1993年)
監修[編集]
- 向坂逸郎共監修『現代と労働運動(全5巻)』(河出書房新社、1972-73年)
- 労働運動史編纂委員会編『総評労働運動の歩み』(総評資料頒布会、1975年)
出典[編集]
- ↑ a b c d 升田嘉夫『戦後史のなかの国鉄労使――ストライキのあった時代』明石書店、2011年、63-64頁
- ↑ a b 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年、70頁
- ↑ 20世紀日本人名事典 コトバンク
- ↑ 六本木敏、鎌倉孝夫、村上寛治、中野洋、佐藤芳夫、高島喜久男『対談集 敵よりも一日ながく――総評解散と国鉄労働運動』社会評論社、1988年、95-96頁
- ↑ 前掲『戦後史のなかの国鉄労使』57-58頁
- ↑ a b c d 清水慎三「岩井章」、朝日新聞社編『現代人物事典』朝日新聞社、1977年、155-156頁
- ↑ 前掲『戦後史のなかの国鉄労使』60頁
- ↑ 前掲『戦後史のなかの国鉄労使』65-67頁
- ↑ 神代和欣、連合総合生活開発研究所編『戦後50年産業・雇用・労働史』日本労働研究機構、1995年、51頁
- ↑ 『社会主義協会の提言』社会主義協会出版局、1978年
- ↑ a b 前田裕晤著、江藤正修聞き手+編集『前田裕晤が語る 大阪中電と左翼労働運動の軌跡』同時代社、2014年、132、179頁
- ↑ 佐長史朗「岩井章」、現代革命運動事典編集委員会編『現代革命運動事典』流動出版、1981年、27頁
- ↑ 労働省編『労働用語辞典』新版、日刊労働通信社、1987年、250頁
- ↑ a b 法政大学大原社会問題研究所編『新版 社会・労働運動大年表』労働旬報社、1995年
- ↑ 清水慎三「岩井章」、朝日新聞社編『「現代日本」朝日人物事典』朝日新聞社、1990年、221頁