江田三郎
江田 三郎(えだ さぶろう、1907年7月29日 - 1977年5月22日)は、政治家、農民運動家。参議院議員、衆議院議員、日本社会党書記長・委員長代行・副委員長、社会市民連合代表などを歴任。長男は元参議院議長の江田五月。
概要[編集]
西尾末廣ら右派が去った後の社会党で構造改革論を提唱。1962年に「江田ビジョン」を発表し、日本での社会民主主義ビジョンをいち早く示したことで知られる。しかし、党内で支持を得られない不運に見舞われ、新党結成後、志半ばで逝去した。
経歴[編集]
戦前[編集]
岡山県久米郡福渡村大字福渡(現・岡山市北区建部町福渡)生まれ。1920年福渡尋常高等小学校(1920年初め高浜小学校から改称、現・岡山市立福渡小学校)卒業。長姉夫婦の援助で、当時日本の植民地下にあった朝鮮・京城の善隣商業学校(5年制)で学ぶ。日本人が植民地で横柄な振る舞いをしていることに気付き、植民地支配について学ぶため[1]、1926年1浪して神戸高等商業学校(現・神戸大学)予科に入学。神戸高商時代に山川均の論文や『文芸戦線』系のプロレタリア文学に触れ、労農派の支持者となった。1929年講座派マルクス経済学者・大塚金之助の下で学ぶため、東京商科大学(現・一橋大学)に入学した。
1931年本科2年で大学を中退、農民運動家の山上武雄に誘われて無産運動に入り、全国大衆党に入党した。同年7月労農党・全国大衆党・社会民衆党合同派が合流して全国労農大衆党が結成され、同党の岡山県支部書記となった。同月に労働争議の応援で初検挙。1932年3月全国農民組合(全農)中央委員。同年夏に浅口郡玉島町(現・倉敷市)の小作争議を指導して検挙され、公務執行妨害罪と業務妨害罪で懲役8ヶ月の刑を受けた[2][3]。1934年1月全農岡山県連合会書記長。1935年9月岡山県会議員選挙に出馬し落選するが、1937年補欠選挙で初当選(1938年9月まで)。1938年2月第2次人民戦線事件で検挙され、治安維持法違反で懲役2年6ヶ月の刑を受けた。1940年9月に出獄後、神戸の葬儀会社の支配人、自動車販売会社の総務部長を経て、1943年9月に「思想要視察人南方送り政策」から逃れるため中国に渡り、華北政務委員会の工務総署の弁事(嘱託)となった。
敗戦後[編集]
敗戦後の1946年4月に帰国し、日本農民組合岡山県連合会書記として農民運動に復帰、日本社会党に入党した。1947年2月、日農中央委員。4月、岡山県議会議員(2期)。9月、社会党岡山県連合会副委員長。1948年1月、社会党中央委員。同年に県議会土木委員会事務局が入手したブリが県議に配給された「ブリ事件」で道義的責任をとって県議を単独辞任し、信任を問い8月の補欠選挙に出馬したが落選した。
1949年1月、岡山1区から衆議院議員選挙に出馬し落選。1950年6月、岡山地方区から参議院議員選挙に出馬し初当選。1951年の社会党の左右分裂時は左派社会党(左社)に所属し、総務部長に就任。1951年3月、日農(主体性派)書記長。1952年1月、左社中央執行委員。同年、左社岡山県連合会委員長。1953年3月、日農(主体性派)書記長を辞任し農民運動の第一線から退場。左社時代の1952年に「株式会社社会タイムス社」を設立して専務となり、政治新聞『社会タイムス』を発行したが1954年5月に倒産・廃刊した。
1955年10月、社会党再統一。1957年1月、社会党中央執行委員、農民部長。同年4月、全国購買農業協同組合連合会(全購連)に関わる汚職疑惑事件(全購連事件)で中央執行委員を辞任。謹慎後、中央執行委員兼組織委員長となり、党の機構改革に着手。1959年10月、組織局長。1960年3月、書記長。同年10月、浅沼稲次郎委員長刺殺により委員長代行。浅沼刺殺事件翌日の臨時党大会で構造改革論を取り入れた大会方針を提案し、特に議論されないまま満場一致で可決された。11月の第29回衆議院議員総選挙では史上初の3党首テレビ討論会(自民党・民社党・社会党)に出演し、長身と白髪、穏やかな口調で国民的人気を集めた。1961年3月、書記長に無競争で再選された(委員長は右派の河上丈太郎)。
構造改革論[編集]
構造改革論とは、反独占の大衆運動・議会主義を通して資本主義社会の構造を漸進的に改革し、平和的に社会主義への移行を目指す考え方である。のちに江田の側近となり「構革三羽烏」「江田派三羽烏」と呼ばれた党本部書記局の貴島正道、加藤宣幸、森永栄悦らは、1958年当時日本共産党員で『イズベスチヤ』東京特派員であった佐藤昇の影響で構造改革論者となった。貴島らは党の機構改革に取り組んできた江田に目を付け、1959年暮れから1960年初めにかけて江田を口説き、労農派マルクス主義に限界を感じていた江田はすぐに構造改革論を受け入れた。1960年11月に社会党中央執行委員会で採択された運動方針案「総選挙の勝利と前進のために」に構造改革論が取り入れられたが[4]、1961年頃から総評議長の太田薫[2]、向坂逸郎率いる社会主義協会が「改良主義」「日和見主義」だとこれに反発し、江田が属していた鈴木派の鈴木茂三郎や佐々木更三らも同調した。1962年1月の第21回定期大会で江田は佐々木を破り書記長に3選されたが、構造改革論は「戦略路線としてただちに党の基本方針としてはならない」と決定された。構造改革路線に替わる路線を策定するために社会主義理論委員会が設置され、1964年に協会派寄りの綱領的文書「日本における社会主義への道」を作成したが、その後も江田の構造改革論を支持するグループと反対するグループの間で構造改革論争が続いた[4]。
1962年7月1日投開票の参議院議員選挙は衆議院に鞍替えするため出馬を見送り、国会の議席を失った。同年7月27日、栃木県日光市で開かれた社会党全国オルグ会議において、社会党が目指すべき社会主義像として、「アメリカの平均した生活水準・ソ連の徹底した生活保障・イギリスの議会制民主主義・日本の平和憲法」の4点を挙げた(いわゆる江田ビジョン)。この演説は『エコノミスト』1962年10月9日号に「社会主義の新しいビジョン」の題で掲載されて大きな反響を呼び、江田の国民的人気は不動のものとなった。しかし、党内では協会派・鈴木派だけでなく江田と協力関係にあった和田派からも反発の声が上がり[4]、1962年11月の第22回定期大会で江田ビジョン批判決議案が可決され、書記長を辞任した[3]。
1963年11月の第30回衆議院議員総選挙に岡山2区から出馬し当選。1966年1月の第27回党大会、同年11月の第28回党大会での委員長選挙では佐々木に敗れた。1967年、副委員長[3]。1968年9~10月の第31回党大会では委員長選挙に出馬せず、書記長選に出馬して6年ぶりに書記長に就任した(委員長は成田知巳)。1970年11月の第34回党大会の委員長選挙では、かつて「構革コンビ」を組んでいた成田知巳に敗れた。1974年、副委員長[3]。
社会党離脱[編集]
1974年に反協会派の立場から佐々木と和解[5]。1970年代に入ると西欧型社会民主主義、社公民路線・反共産党路線、市民運動重視の立場に漸進的に転換し、1976年2月7日に東海大学総長の松前重義、公明党書記長の矢野絢也、民社党副委員長の佐々木良作らと「新しい日本を考える会」を結成した。しかし、1976年12月の総選挙で落選し、1977年2月の第40回定期大会で協会派系の代議員から激しい攻撃を受け、同年3月26日に社会党を離党した[4]。
1977年4月24日、市民運動家の菅直人、『現代の理論』編集長の安東仁兵衛らと社会市民連合(社会民主連合の前身)を結成し、7月の参議院議員選挙に全国区から出馬することを表明した。しかし、同年5月22日、都内の病院で肺がんのため急死した[6]。享年69歳。代わりに長男の江田五月が急遽出馬し、初当選を果たした。
著書[編集]
- 『全農岡山闘争史』(全国農民組合岡山県聯合会編、土井書店、1936年) - 奥付の「編輯者」の欄は「全国農民組合岡山県連合会代表・江田三郎」となっており、実際の執筆者は江田である。発売後、発禁処分を受けた[2]。
- 『これからの農民運動――日本農民組合運動方針並びに解説』(日本農民組合総本部[農民運動叢書]、1949年)
- 『農民運動の歴史』(伊藤茂共著、労働大学通信教育部[労働大学通信教育講座]、1961年)
- 『女として人間として――明日を生きる科学』(青春出版社[青春新書]、1962年)
- 『社会主義の未来像』(成田知巳共著、青木書店[青木新書]、1963年)
- 『社会科学のすすめ』(伊東光晴、杉田正夫、竹内良知、中岡哲郎、原茂、松下圭一共著、合同出版社[合同新書]、1964年)
- 『日本の社会主義』(日本評論社、1967年)
- 『私の日本改造構想』(読売新聞社、1972年)
- 『新しい政治をめざして――私の信条と心情』(日本評論社、1977年)
社会党江田派[編集]
江田は鈴木派に属していたが、党内で佐々木更三と対立するようになってから江田派を結成した[2]。1965年3月に活動家や学者の組織として社会主義運動研究会を発足させ[5]、雑誌『社会主義運動』を発行した。1971年に江田派、旧河上派、佐々木派から離脱した山本幸一グループはそれぞれの派閥を解消し現代革新研究会(通称:新江田派)を発足させた[2]。
- 江田派
- 新江田派
- ブレーン
- 安東仁兵衛、池山重朗、内田健三、久保孝雄、佐藤昇、竹中一雄、正村公宏、松下圭一、山本満など。1970年の社公民路線提唱後に松下圭一、山本満、竹中一雄の3人の有力ブレーンが江田から遠ざかったが、北澤方邦、高屋定國らが新たにブレーンとなった[2]。
出典[編集]
参考文献[編集]
- 塩田潮『江田三郎――早すぎた改革者』(文藝春秋、1994年)
関連文献[編集]
- 日本経済新聞社編『私の履歴書 第18集』(日本経済新聞社、1963年)
- 『江田三郎』刊行会編『江田三郎――そのロマンと追想』(『江田三郎』刊行会編、1979年)
- 貴島正道『構造改革派――その過去と未来』(現代の理論社[現代の理論叢書]、1979年)
- 北岡和義責任編集『政治家の人間力――江田三郎への手紙』(明石書店、2007年)