水原輝雄

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

水原 輝雄(みはら てるお[1]1924年[2] - )は、社会運動家。社会主義協会の分裂時の事務局長。社会主義協会太田派の中央常任委員[3]

経歴・人物[編集]

福岡県生まれ。1951年九州大学法文学部卒業。九学連初代書記長を務めた[2]野中卓上妻美章とともに九州大学共産党細胞の中心メンバーであった[4]。共産党九州地方委員会では谷川雁とともに三羽烏の1人に数えられ、宮本顕治の秘書もした[5]向坂逸郎の『日本資本主義の諸問題』等を読み、1953年社会主義協会事務局に入る。1954年合化労連本部に勤務。教宣部、組織部、総評全国オルグ、新情報発行責任者、社会主義協会運営委員を経て、1961年11月社会主義協会組織部長(全国オルグ兼任)[2]。1962年10月社会主義協会事務局長。「実践体への傾斜」の方向に協会をリードし[6]、1967年の協会分裂の主流派側の立役者、社会主義協会太田派の中心人物となった[7]。しかし、わずか1年後の1968年暮れに社会党変革の「現実的可能性はなくなった」として協会を脱退した[6][7]

本多延嘉岸本健一の『日本型社会民主主義』(1966年)の書評で「五〇年分裂当時の「移行者」は、社会主義協会の現事務局長(水原輝雄)のようにいくぶんか党員的経歴をかくしたがるが、六一年分裂の「移行者」は、むしろ社会党への移行を共産主義者としての当然の行為であるかのようにふるまっている人が少なくない」と述べている[8]

著書[編集]

  • 『国民運動の組織と展望』(労働大学通信教育部[労働大学テキスト・活動家シリーズ・組織部門]、1964年)
  • 『社会主義講座 第4巻 社会主義政党』(衣笠哲生、中山嵂雄共著、労働大学、1965年)
  • 『社会党変革への道』(労働大学[労大新書]、1967年)
  • 『社会観の選択――マルクスと現代思想』(粕谷信次佐藤浩一成島道官川上忠雄渡辺国温共著、社会評論社、1987年)

出典[編集]

  1. 水原輝雄「思想闘争と大衆闘争」『社会主義』第154号、1964年8月
  2. a b c 「協会だより」『社会主義』第120号、1961年10月
  3. 水原輝雄、浅川明、北満男「なにをなすべきか――階級的,戦闘的労働運動の前進のために」太田協会機関誌『社会主義』第196号、1968年2月
  4. 松本弘也「編集五十年(4)西尾除名問題と民社党の結成」『進歩と改革』第683号、2008年11月
  5. 柏井宏之「労農派、講座派の末裔たち (1)」 一人ひとりが声をあげて平和を創る メールマガジン「オルタ広場」
  6. a b 「社会主義協会20年の歩み――座談会(1)」太田協会機関誌『社会主義』第236号、1971年8月
  7. a b 戸塚秀夫、中西洋、兵藤釗、山本潔『日本における「新左翼」の労働運動(下)』東京大学出版会、1976年
  8. 本多延嘉「二 岸本健一著『日本型社会民主主義』(『前進』274号1966年3月7日)」(『本多延嘉著作選第3巻』)