灰原茂雄

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灰原 茂雄(はいばら しげお、1915年4月7日 - 2000年3月18日)は、労働運動家[1]。元・三池炭鉱労働組合(三池労組)書記長、日本炭鉱労働組合(炭労)事務局長。

経歴[編集]

台北市生まれ[2]。攻玉社高等工学校卒業[3]。戦前、国鉄および華北交通に勤務[4]。1946年三井鉱山三池鉱業所に事務手として入職[2]三池炭鉱労働組合(三池労組)本所支部に所属。三池町(現・大牟田市)で地域サークル「三池政治文化協会」を組織。1947年1月三池政治文化協会で初の講演を行った向坂逸郎と親しくなり、塚元敦義らとともに「向坂教室」といわれる学習会を組織[2][5]。1948年10月三池労組本所支部生産部長に選任され、1969年8月まで継続して専従役員に選任[4]。この間、1949年5月全国三井炭鉱労働組合連合会(三鉱連)執行委員。1951年4月日本社会党に入党。同年6月社会主義協会同人[5]。三池労組本所支部長などを経て[2]、1953年5月三鉱連事務局長となり[5]、「英雄なき113日の闘い」などを指導[2]。1958年7月三池労組書記長となり[5]、1959~1960年の三池争議、1963年の協約不調印闘争などを指導[2]。1963年8月争議指導責任で懲戒解雇[5]。1966年10月日本炭鉱労働組合(炭労)事務局長となり[6]、石炭国有化闘争を指導[2]。1969年8月炭労事務局長を退任。同年10月社会主義協会組織部長[5]、のち学習部長[1]労働大学講師も務めた[4]。1998年2月に佐藤保代表が召集した社会主義協会第31回総会に参加せず、同年3月に新社会党系の社会主義協会(いわゆる「再建協会」「坂牛協会」)の結成に参加した[7]。同年社会主義協会顧問[1]

著書[編集]

  • 『長期抵抗・統一路線』(労働大学、1972年)
  • 『職場からの組織づくり――生命と権利の強化』(塚元敦義共著、日本社会主義青年同盟中央委員会[社青同学習シリーズ]、1980年)
  • 『階級的労働運動への道――70年代労働運動の総括と80年代労働運動への提言』(岩井章共編著、社会通信社、1980年)
  • 『反撃への道――労働運動の右傾化に抗して』(岩井章共編著、社会通信社、1981年)
  • 『階級的労働運動の課題――三池にまなぶ』(三池労働運動研究会、1981年)
  • 『反合理化闘争の理論と実践』(岩井章共編著、社会通信社、1983年)
  • 『三池を語る』(編著、『三池を語る』刊行委員会、1983年)
  • 『労働者支配と職場闘争』(編著、社会主義協会出版局、1983年)
  • 『国鉄闘争とわれわれの提言』(編著、社会主義協会出版局、1987年)
  • 『三池と向坂教室――向坂逸郎・灰原茂雄往復書簡をめぐりて』(編著、社会主義協会出版局、1989年)
  • 『闘い学ぶ仲間たちと――灰原茂雄論文集』(社会主義協会、1990年)
  • 『主権在民――夜明け前をともに闘う』(寺子屋21世紀[寺子屋21世紀新書]、発売:青英舎、2000年)

出典[編集]

  1. a b c 20世紀日本人名事典の解説 コトバンク
  2. a b c d e f g 高木郁朗「灰原茂雄」、朝日新聞社編『現代人物事典』朝日新聞社、1977年、1013-1014頁
  3. デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説 コトバンク
  4. a b c 灰原茂雄『長期抵抗・統一路線』労働大学、1972年
  5. a b c d e f 石河康国向坂逸郎にとっての三池 (シンポジウム 三池争議と向坂逸郎)PDF」『大原社会問題研究所雑誌』第631号、2011年5月
  6. 三池炭鉱労働組合編『みいけ20年』旬報社、1967年
  7. 社会主義協会第三一回再建総会宣言(附:社会主義協会再建運動に合流しよう) 労働者運動資料室

関連項目[編集]

関連文献[編集]