中村建治

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中村 建治(なかむら けんじ、1921年 - 1984年[1])は、経済学者。元総評書記。

経歴[編集]

大連生まれ。1943年9月大分高等商業学校卒業[2]。戦後、英軍捕虜としてマレークアラルンプールで作業に従事。最終階級は少尉。附下士官の影響でマルクス主義に傾斜。1947年復員、農林省大分食糧事務所に就職。1948年全食糧中央執行委員。全農林大会に代議員として出席し、共産派の執行部と対立し、反共産党となる[3]。1949年全農林大分県支部書記長[4]。1949年九州大学経済学部入学。向坂逸郎に師事し、高橋正雄とも親しくなる。1952年九州大学経済学部(旧制)卒業。特別研究奨学生として九大大学院入学[3]。1957年3月九大大学院修了。総評政治局、教育宣伝局、争議対策局(合理化専担)に勤務。その間、全電通に2年間嘱託として出向[2]。1962年秋の社会党大会において、「社会党の前進のために」と題する全電通東京地本書記長蜂谷貫治都職労副委員長鈴木八郎、社会党・社会主義協会有志との連名のビラを会場前で代議員に配り、江田ビジョンをめぐって向坂を批判したため、1962年12月に社会主義協会を除名された[5][6][7]。鈴木、蜂谷とともに「なかまグループ」を結成、代表委員[8]。1966年3月総評退職、1967年4月東海大学に就職[2]。東海大学講師[9]、助教授[10][3]、同大学短期大学部教授[11]。「新しい国鉄をめざす国民会議設立準備会世話人会」代表世話人を経て[12]、1976年3月「新しい国鉄をめざす国民会議」理事[13]、副議長[14]

社会主義協会や総評を激しく批判したことで知られる[15][16]。論文に「相対的窮乏化論批判と絶対的窮乏化論批判」(『マルクスの批判と反批判』新潮社、1958年)、「マルクス経済学の批判的研究」(全10回、『東海大学論叢商経研究』20〜29号、1968〜1973年)などがある。

著書[編集]

  • 『合理化と労働組合』(三一書房[三一新書]、1966年)
  • 『われらに総評は必要か』(萩書房、1967年)
  • 『岐路に立つ総評』(雪華社、1968年)
  • 『マルキシズムを超えて――日本人の参加論』(富士社会教育センター出版局富士選書]、1974年)
  • 『社会主義協会を斬る――その思想と戦略・戦術を衝く』(日新報道、1977年)
  • 『マルクス主義を斬る――時代錯誤的教条主義の根源を衝く』(日新報道、1979年)

出典[編集]

  1. 寺井融「国労組合員も認める職場の荒廃」『改革者』25巻8号(通巻295号)、1984年12月
  2. a b c 中村建治『マルキシズムを超えて――日本人の参加論』富士社会教育センター出版局、1974年
  3. a b c 中村建治『マルクス主義を斬る――時代錯誤的教条主義の根源を衝く』日新報道、1979年
  4. 中村建治『合理化と労働組合』三一新書、1966年
  5. 『社会主義』136号、1963年1月、68頁
  6. 国民政治年鑑編集委員会編『国民政治年鑑 1963年版』日本社会党機関紙局、1963年
  7. 中村建治『岐路に立つ総評』雪華社、1968年
  8. 中村建治「グループ探訪/なかまグループ」『月刊労働運動』6号、1965年6月
  9. 中村建治『われらに総評は必要か』萩書房、1967年
  10. 高橋正雄『わたしの造反』読売新聞社、1970年
  11. 日本学術振興会編『研究者・研究課題総覧 人文・社会科学編 1984年版 社会科学・索引』日本学術振興会、1984年
  12. 吉田忠雄「国鉄〝国民会議〟は前進する」『経済往来』27巻5号、1975年5月
  13. 窪田哲夫「投稿「新しい国鉄をめざす国民会議」を励まそう」『革新』58号、1975年5月
  14. 中村建治「何が国鉄を荒廃させたか」『革新』87号、1977年10月
  15. 灰原茂雄『三池と向坂教室――向坂逸郎・灰原茂雄往復書簡をめぐりて』社会主義協会出版局、1989年
  16. 稲葉三千男「教宣綱領づくりのこと」『月刊総評』271号、1980年7月