社会主義協会太田派
社会主義協会(しゃかいしゅぎきょうかい)は、日本社会党系の社会主義運動団体で、日本社会党の派閥の1つ。向坂派の社会主義協会と区別するため、「社会主義協会太田派」「太田派社会主義協会」「太田協会」「太田派協会」などと呼ばれる。
概要[編集]
1967年6月の第8回定期全国大会で社会主義協会は、規約第2条の「協会は世界の平和と日本の社会主義革命を達成するため、理論的・実践的な研究・調査・討議を行い、日本社会党、労働組合、農民組合、社青同、日本婦人会議の階級的強化に努力する」の内、「理論的・実践的な研究・調査・討議を行い」の削除を求める太田派と、これに反対する向坂派に分裂した[1]。規約第2条の改正は過半数で可決され、向坂逸郎は代表辞任を表明して大会から退場した。向坂派は1967年8〜9月に新たな社会主義協会を「再建」し、機関誌『社会主義』を創刊した。分裂当初は太田派が多数派だったが、70年代に向坂派が社会党の活動家の間で勢力を拡大したため、一般に社会主義協会といえば向坂派の社会主義協会を指すようになった。
水原輝雄事務局長、太田薫ら太田派は第8回大会でサークル主義を打破し、協会は「組織的な運動体」に脱皮したと主張した[2]。一方、向坂逸郎ら向坂派は規約第2条の修正を「協会を人事派閥の道具にする党内派閥化コース」「協会決定を党決定に優先させるがごとき別党化コース」を示すものだと批判した[3]。中村建治によると、元日本共産党員の水原輝雄事務局長、嶋崎譲九大教授が、レーニンの組織論を踏まえて協会を名実ともに日共と張り合う組織にしようとつとめ、向坂逸郎とその弟子たちが反発して協会が分裂した[4]。山﨑耕一郎によると、「…共産党育ちの水原さんが、せっかく協会、社青同という組織があるんだから社会党と別の党をつくろう、とした。…太田薫はそんなことを知らないから、そのまま協会に残った」という事情があった[5]。秋山謙祐によると、分裂の背景には1960年の三池闘争で中央労働委員会の斡旋案を受け入れた太田薫総評議長に対する向坂逸郎らの反発もあった[6]。
太田薫が総評時代に築いた影響力が福岡や新潟の県評に残っており、太田派は特に九州全体で強い影響力を持っていた[7]。産業別に太田派協議会を組織し、1970年代には高教組、自治労などで産別協議会を母体に国会議員を送り出した[8]。1974年頃には嶋崎譲ら3人の衆議院議員を擁していた[9]。国鉄協議会総会には国労内の太田派が100名以上参加し、国労全国大会に30名以上の代議員を送り出していた[8]。国鉄分割民営化の過程で鉄産総連、のちJR連合に活動の場を移した[10]。1987年5月1日付で中心人物の太田薫が国労脱退と鉄産総連結成に反発して太田協会を脱退し、同年12月12日に相原宏志国労本部副委員長などと「社会主義労働運動研究会」を結成した[11]。太田脱退後の社会主義協会は1988年4月の436号から機関誌名を『進歩と改革』に変更し、1989年1月には組織名を日本社会主義者センター(略称:社会主義センター)に変更した[12]。『進歩と改革』は1990年10月の466号から日本社会主義者センターの表記が消え、1992年1月の481号から発行所が株式会社協同文化社から進歩と改革研究会に変更された。しかし、1998年12月の564号および1999年10月の574号に掲載された大坪康雄の文章には日本社会主義者センターと記載されている。社会主義協会から名称を変更した後は社会民主主義を積極的に標榜する団体となり、社会民主党を支えている。鎌倉孝夫は旧太田派について「この人たちは、地に足の着いた運動をしていた。頭だけの観念的な運動じゃなかった。だから持続している」と評している[13]。
進歩と改革研究会の所在地は東京都港区芝5-26-30 専売ビル6F。機関誌『進歩と改革』は新宿の模索舎が取り扱っている。
太田派から分裂して結成された新左翼党派には日本労働者階級解放闘争同盟(のち「人民の力」)や共産主義研究会(のち「青年共産主義者同盟(準)」を経て『国際主義』編集会議)がある。
太田派の主な人物[編集]
- 太田薫(元総評議長、合化労連委員長)
- 水原輝雄(分裂時の社会主義協会事務局長)
- 嶋崎譲(九州大学教授、衆議院議員)
- 奥田八二(九州大学教授、福岡県知事)
- 秋沢修二(静岡大学教授、太田派協会顧問)
- 衣笠哲生(九州大学教授、太田派協会議長)
- 八丁和生(社会問題研究所所員)
- 岡十万男(労働評論家、太田派協会顧問)
- 和田静夫(分裂時の社会主義協会中央常任委員会議長、自治労組織部長。衆議院議員、参議院議員)
- 深田肇(参議院議員、衆議院議員、元社青同委員長)
- 立山学(ジャーナリスト、元社青同委員長)
- 秋山謙祐(国労企画部長、鉄産労連執行委員)
社青同全国協[編集]
日本社会主義青年同盟全国協議会(略称:社青同全国協、通称:社青同太田派)は社会主義協会太田派系の青年団体。1971年2月の社青同第10回大会で向坂派が執行部を掌握したが、太田派は大会の開催に反対した。太田派は1971年5月に全国社青同再建協議会を結成し、1973年2月に日本社会主義青年同盟全国協議会に改称した[14]。関西を中心に活動していた[13]。1990年12月に新潟市で開催した第12回全国総会で綱領、規約を改定し、名称も社会主義青年フォーラム(略称:青年フォーラム)に変更した[15]。
月刊すくらむ[編集]
『月刊すくらむ : 働く仲間がみんなでつくる月刊学習誌』は、すくらむ社(東京都港区)が発行していた太田派の学習誌。1968年12月創刊。九州大学附属図書館には1999年発行の358号まで所蔵されている[16]。
出典[編集]
- ↑ 岡田一郎『日本社会党―その組織と衰亡の歴史―』新時代社、2005年、135頁
- ↑ 『社会運動通信』987号、1967年9月8日
- ↑ 社会主義協会再建準備会「声明」『社会主義』再建1号(1967年9-10合併号)、1967年10月
- ↑ 中村建治『マルクス主義を斬る――時代錯誤的教条主義の根源を衝く』日新報道、1979年、21頁
- ↑ 佐藤優、山﨑耕一郎『マルクスと日本人――社会運動からみた戦後日本論』明石書店、2015年、99頁
- ↑ 秋山謙祐『語られなかった敗者の国鉄改革――「国労」元幹部が明かす分割民営化の内幕』情報センター出版局、2009年、80頁
- ↑ 前掲『マルクスと日本人』98頁
- ↑ a b 前掲『語られなかった敗者の国鉄改革』86頁
- ↑ 前掲『語られなかった敗者の国鉄改革』104頁
- ↑ 前掲『語られなかった敗者の国鉄改革』「終章」
- ↑ 日本労働年鑑 第58集 1988年版(PDF)
- ↑ 大坪康雄「「日本社会主義者センター」の発足にあたって」『進歩と改革』447号、1989年3月
- ↑ a b 鎌倉孝夫、佐藤優『はじめてのマルクス』金曜日、2013年、159頁
- ↑ 前田治「社青同全国協の到達点と今後の課題」『社会主義』293号、1976年5月
- ↑ 片岡正英「社会主義青年フォーラムの出発」『進歩と改革』471号、1991年3月
- ↑ 月刊すくらむ : 働く仲間がみんなでつくる月刊学習誌 九州大学附属図書館