本多正信

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本多 正信
ほんだ まさのぶ
改名 弥八郎(仮名
性別
年齢 79
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生年月日 天文7年(1538年
生誕地 三河国(現在の愛知県
死没日 元和2年6月7日1616年7月20日
肩書き 徳川氏・家臣→松永氏・家臣→徳川氏・家臣
国籍 日本国旗.png日本
階級 相模玉縄藩主
役職 江戸幕府・老中
官位 従五位下、佐渡守
後任者 本多正純(家督相続者)
子供 正純政重忠純
父:本多俊正、母:不詳
家族構成 正信正重

本多 正信(ほんだ まさのぶ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将大名徳川家康の家臣で、江戸幕府老中相模国玉縄藩主。正信系本多家宗家初代。関ヶ原前後から家康の側近として権勢を振るい、様々な献策を行なったとされる謀臣として著名である。

生涯[編集]

徳川氏の前身である松平氏の家臣だった本多俊正の次男として三河国で生まれ、初めは鷹匠として家康に仕えた。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いに従軍して負傷し、以後は足を引きずるようになったといわれる[1]

永禄6年(1563年)、三河一向一揆は発生すると一揆軍の大将として家康に叛き、本證寺の住職・空誓の軍略家として活躍した。一揆が家康に鎮圧された後は家康に帰参せず、三河を離れて出奔する。諸国を流浪したとされるが、この間の事情については諸説があって定かではない。大和国松永久秀に仕えていた、あるいは織田信長と一向一揆で戦っていたとする説がある。信長が室町幕府を滅ぼした頃から本能寺の変が発生するまでの間に、大久保忠世を通じて家康に赦免を願い出て、徳川家に帰参している[1]

本能寺の変の際は家康に同行して和泉国にあり、変後は家康に従って伊賀越えに付き従った(『藩翰譜』)。同年の天正壬午の乱で旧武田領の大部分が家康の所領になると、正信は家康から奉行に任命されて領地の差配、旧武田家臣団の徳川家臣団への編入などで活躍した。天正18年(1590年)、家康が関東に移封された際には、相模国玉縄城主として1万石(あるいは2万2000石)を食む大名となった[1]

慶長3年(1598年)8月に豊臣秀吉死亡した頃から、家康の側近・懐刀としての活躍が後代の史料(二次史料)などでは多く見られる。前田利長に対する加賀征伐七将事件をはじめ、秀吉没後の豊臣政権下で起こった政変の大半は、家康に正信が進言して策動した、という形が取られている。ただし、一次史料ではほとんど確認できない。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、中山道を進軍する徳川秀忠の軍に従軍。秀忠を補佐する老臣として榊原康政と共に家康に付けられ、秀忠が信濃国上田城真田昌幸を攻めようとした際には反対したと伝わっている。ただし、『三河物語』では積極的に賛成したとなっている。結局、上田城攻めには敗れて、地理的要因や様々な理由もあり、秀忠は関ヶ原本戦には遅参することになった。

戦後に家康が自身の後継者として誰がよいかと重臣に下問した際、大久保忠隣本多忠勝井伊直政、榊原康政らと共にメンバーの1人に加えられていることから、当時には既に徳川家を代表する重臣の立場にあったことがわかる。正信は家康の次男・結城秀康を推したといわれている[1]。また、関ヶ原の戦いの後に家康から長年の功績により加増を打診されたこともあるが、正信は拒否して従来通りの所領を望んだ。

慶長6年(1601年)からは家康が征夷大将軍に任官するため、朝廷との折衝に努めた。また、江戸幕府開設後は老中として幕政に参画し、幕政の整備、特に宗教問題に着手し、当時の石山本願寺教如准如により分裂していたことに付けこみ、東本願寺西本願寺に分けることでその勢力を弱体化させることに成功した[1]。これは、正信が一向一揆に関与していた時期があることを利用してのことと見られている。慶長10年(1605年)、家康が隠居して大御所になると、正信は家康の命令により第2代将軍となった秀忠付きの老臣となり、その下で権勢を大いに振るった。家康の下には嫡男の正純を送り、父子でそれぞれ権勢を振るった。また、政敵である大久保忠隣を大久保長安事件を利用して失脚させたと『徳川実紀』など後代の史料に記録されており、そのため多くの幕臣から恨まれるようになったといわれている。

元和2年(1616年)4月に家康が死去すると、正信は秀忠に隠居を願い出て許され、相模玉縄で余生を送った。しかし既に高齢で病身であったとされ、家康の死から49日後の6月7日に後を追うように死去した。享年79[2]

人物像[編集]

後代の史料では、家康を支えた謀臣として描かれている。徳川家の知恵袋といわれ、家康が関ヶ原前後や豊臣家に対して行なった謀略の数々は、正信が献策したものといわれている。ただし、若い頃に怪我をして武功とは無縁になったことから武功派には恨まれたといわれており、このあたりが豊臣氏石田三成とよく似ている立場である。ただし、三成と違って正信は物欲や所領欲が全くなく、前述しているが家康の重臣であるにも関わらず、所領はわずか1万石(あるいは2万2000石)であった。家康から加増を打診された時ですら謝絶しており、嫡男の正純に対しても「3万石以上はもらってはならない。それ以上もらえばわが身の破滅となる」と訓戒していたという。権力を振るった正信が最後まで身を保てたのは、この物欲に対する無欲があったためと思われる。ちなみに正純は父の訓戒をその死後に破って宇都宮藩に15万石の大領を得て、最後は改易されている。

本多忠勝や榊原康政ら武功派からは恨まれ、正信の復帰に尽力したのに失脚させられた大久保忠隣の叔父・大久保忠教からは『三河物語』で大いに叩かれている存在となっている。前述の信濃上田攻めの際、上田城攻めに賛意を示したとされているのも、恐らくそれが影響しているのではないかと推定される。

松永久秀は正信を家臣にしていた時にその知略を大いに評価し、「徳川の家臣とは武勇に優れたものばかりと思っていたが、正信のみは勇ではなく知である」と評している。また、『藩翰譜』によると家康は「正信は家臣ではなく、我が友である」とまで述べたといわれている。

本多正信が登場する作品[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

  1. a b c d e 渡邊大門「関ヶ原合戦人名事典」P140
  2. 渡邊大門「関ヶ原合戦人名事典」P141

参考文献[編集]