本證寺
本證寺鼓楼 | |
別名 | なし |
城地種類 | 平城(寺院) |
縄張 | なし |
城郭年代 | 中世 |
築城者 | 慶円 |
主要城主 | 慶円〜慶海、浄海〜玄海、空誓〜達円、小山達誉〜小山興円 |
近年の復元や整備 | 空堀、土塁 |
天守の現状 | 天守存在せず |
日本・続日本100名城スタンプ設置場所 | なし |
本證寺(ほんしょうじ)とは、かつて尾張国額田郡(現:愛知県岡崎市)に存在した日本の寺。
概要[編集]
鎌倉時代初期頃に小山城主の御家人・小山朝政の次男である慶円と呼ばれる僧が開いた。伝説によると、この近くにあった山の山頂から矢を放ち、その矢が刺さった場所を本證寺の敷地としたという。
慶円は親鸞をこの寺に招いた際、寺の庵室では雨漏りが起きていた。しかしなぜか親鸞の周りだけは雨漏りがしていなかったという。このことからこの庵室は、「雨漏り御殿」と呼ばれるようになった。室町時代に一向宗の蓮如が畿内で勢力を伸ばすと、それに服従するため改宗が必要とされた。これにより本證寺は改宗して一向宗の寺院とした。
改宗後は蓮如の子孫が住職を務めた。16世紀初期に岡崎の地を松平清康が征服すると、本證寺は松平の支配下となる。この時本證寺は一向宗の為年貢の取り立てが免除されていた。しかし桶狭間の戦いにて松平の主君である今川義元が討たれ、松平元康(家康)が混乱状態に陥ると、それに応じて国の管理が難しくなった。そこで元康は、一向宗から年貢を取り立てて国の安定を図ろうとした。元康勢は三河一向宗の拠点である本證寺より年貢を奪い取り、これにより三河一向一揆が発生した。一揆には本多正信や夏目広次など、多数の松平家臣が裏切り一時は一向勢が有利となるも、後に松平勢が有利となる。時の住職・空誓は不利となった一向勢を立て直す為に、一揆の和睦を提案する。和睦は成立したが、条件に「寺を元に戻すように」とあった為、松平勢は寺を破却して創建される前の野原に戻したと伝わる。
天正11年(1583年)、徳川家康によって一向宗の門徒が赦免される。そして翌々年の天正13年(1585年)、本證寺は門徒により再建された。
江戸時代になると本堂やなどが再建され、また土塁や鼓楼・堀をはじめとした防御設備を兼ね備えた近代城郭風に整備した。その後一向宗が時宗に吸収されると、本證寺は浄土真宗に改宗した。現在も江戸時代に建造された本堂などは、太平洋戦争を乗り越えて現存しており、一部の土塁や堀も残っている。