玉縄藩
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玉縄藩(たまなわはん)は、江戸時代前期・中期のごくわずかな期間に相模国に存在していた藩である。藩庁は玉縄城、のち玉縄陣屋に置かれた。甘縄藩(あまなわはん)とも呼ばれる。藩主家は譜代大名の本多氏、大河内松平家。石高は1万石、2万2000石。現在の神奈川県鎌倉市に存在した。
概要[編集]
後北条氏の時代、玉縄は重要視されて一族の北条綱成などが置かれていた。天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条氏が滅亡し、関東に新たに入部した徳川家康は、自らの側近である本多正信を1万石で玉縄に入れ、こうして玉縄藩が立藩した。本多正信は家康の最側近として活躍し、江戸幕府が成立すると家康、そして後継者の徳川秀忠のもとで大いに権勢を振るったが、所領は1万石から2万2000石程度だったという。家康が死去すると正信も後を追うように没し、息子らはいずれも父親とは別に既に所領を得ていたので玉縄藩は廃藩となった。
寛永2年(1625年)、大河内松平正綱が第3代征夷大将軍・徳川家光より2万2000石を与えられて玉縄に入り、玉縄藩が復活する。その後、藩主は正信、正久と変わり、元禄16年(1703年)に正久は上総国大多喜藩に移封となり、玉縄藩は完全に廃藩となり、玉縄陣屋も廃止された。
歴代藩主[編集]
本多家[編集]
譜代 1万石 (1590年 - 1616年)
- 正信(まさのぶ)〔従五位下・佐渡守〕
松平〔大河内〕家[編集]
譜代 2万石 (1625年 - 1703年)