七将事件

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七将事件(しちしょうじけん)とは、慶長4年(1599年)閏3月に大坂並びに伏見で発生した事件である。石田三成を襲撃したことから、石田三成襲撃事件(いしだみつなりしゅうげきじけん)とも言われる。

概要[編集]

七将とは[編集]

七将とは、豊臣政権下において豊臣秀吉の下で武功を立てて活躍した武将たちのことを指す。以下は七将のメンバーである。

この七将は『関原始末記』『関原軍記大成』『徳川実紀』など、いずれも後代の二次史料で記録されている。ただし、慶長4年(1599年)閏3月5日付家康文書(『譜諜余録』)によると、池田輝政と加藤嘉明の名は無く、代わりに蜂須賀家政阿波国徳島城主)、藤堂高虎(伊予国板島城主)の名が見える。これは一次史料なので、信頼性が高いと考えられる。

ただ、家康の侍医である板坂卜斎の覚書である『慶長年中卜斎記』では、輝政の代わりに脇坂安治淡路国洲本城主)を加えた七将となっている。

義演日記である『義演准后日記』では「大名十人とやらん」とあり、7人では無く10人とされている。豊国社神龍院梵舜の日記である『舜旧記』では「七人大名衆」とあり、やはり7人とある。

襲撃までの過程[編集]

慶長3年(1598年)8月18日に時の天下人である豊臣秀吉が死去し、豊臣政権は秀吉のわずか6歳の嫡子である秀頼が継承した。しかし、6歳の幼児に政治を執ることは不可能なため、秀吉は五大老徳川家康、並びに前田利家を秀頼の後見にそれぞれ任じ、政権は五大老五奉行による合議により行うように遺言していた。

しかし秀吉が亡くなると、毛利秀元処遇問題をはじめとして秀吉生前から山積されていた政治問題が一気に噴き出し、それぞれが様々な党派を組んで争うようになった。従来、これらの政争は次の天下人の座を狙う家康が一方的に引き起こしたものとされてきたが、一次史料などの見直しから、石田三成や毛利輝元らにも私党形成で問題があったのは紛れもない事実であり、一方的に家康を非難するのは誤りである。

それはさておき、豊臣政権は家康と利家の両巨頭の下で何とかバランスを保ちながら、運営されていた。家康私婚問題などが発生して一触即発の事態が起こったりもしたが、何とか軍事的な騒動には至らずに済んでいる。

しかし、慶長4年(1599年)閏3月3日に前田利家が死去したため、政権内で大事件が勃発することになった。七将が大坂にいた石田三成を襲撃したのである。

従来、石田三成はこの襲撃を事前に知って、在京していた常陸国水戸城主・佐竹義宣の支援を得て大坂を脱出し、閏3月4日に京都の伏見に移り、そして家康の屋敷に逃げ込んで助けを求めた、とされてきた。天下を狙う家康は、三成が多くの武将に恨まれていることから今、殺しても何の意味もなく、むしろ政権内の火種を無くしてしまうし、頼ってきた者を卑怯にも謀殺すれば家康の名前に傷がつくから殺せず、三成を庇護して居城の近江国佐和山城まで送り届けた、が信じられてきた。

しかし、17世紀の史料に三成が家康の屋敷に入ったと記録しているものは皆無である。三成が家康の屋敷に逃げ込んだとしている初出史料は、元禄13年(1700年)に大道寺友山が書いた『岩渕夜話』である。ところが17年後の享保2年(1717年)、大道寺は自分のミスに気づいたらしく、『落穂集』で「三成は自分の屋敷に逃げ込んだ」と訂正している。

だが、大道寺のこのミスは、明治時代参謀本部の『大日本戦史・関原役』や徳富蘇峰の『近世日本国民史・関原役』でそのまま採用されてしまった。三成が家康の下に逃げ込んで助けを求め、三成と家康が駆け引きを繰り広げるという状況が、小説家などにとっては格好の材料となったからである。しかも、司馬遼太郎が自著『関ヶ原』でこの大道寺のミスをそのまま採用してしまうと、架空戦記小説や歴史小説などを書く多くの作家、小説家などが「三成が家康の下に逃げ込んだ」というのを史実として描くようになってしまった。つまり、レベルの低い歴史家、作家によって史実が曲解されてしまったのである。

慶長見聞書』では「三成は伏見城で本丸の次に高い治部少輔曲輪の自邸に逃げ込んだ」とある。『多聞院日記』閏3月9日条でも「伏見、治部少輔、右衛門尉徳善院、一所に取り籠もり由候」とある。そして、信頼性が低い後代の史料である『関原軍記大成』ですら、「三成は伏見の城内に入りて、我が屋敷に楯籠もる」とある。

襲撃の動機[編集]

秀吉の晩年、朝鮮出兵が行なわれ、慶長の役の際、ある問題が起きた。慶長の役は最早日本軍の勝利の可能性は低く、慶長2年(1597年)12月22日に蔚山城朝鮮連合軍が攻めてきた。これに対し、日本軍は浅野幸長と加藤清正が奮戦。年が明けて慶長3年(1598年)1月3日に蜂須賀家政と黒田長政が後詰に駆け付けたことにより、連合軍を撃退することに成功した。

ところがこの際、日本軍は連合軍を追撃しなかった。いや、籠城で疲弊していた軍勢に追撃は不可だったというべきかもしれないが、これが大問題になった。当時、日本軍の軍監を務めていた福原直高熊谷直盛らが追撃しなかったことを「怠慢」として秀吉に讒訴したのである。これは秀吉の逆鱗に触れて秀吉は激怒し、清正と幸長を譴責処分、家政と長政を謹慎処分に処した(『島津家文書』967号)。さらに『看羊録』によると、この事件により早川長政竹中重隆改易され、その所領が福原に与えられたというのである。

福原と熊谷は、いずれも三成の娘婿、妹婿であり、三成の近しい縁者であるから、この讒訴に七将が遺恨を覚えたのは無理も無かった。

三成と家康の動き[編集]

三成は伏見城の自邸に逃げ込むと、毛利輝元に援軍を要請している。

「今、こちらが首尾よく籠城するに至り、七将は打つ手を無くしている。まだ事件らしい事件にもなっていないので、今のうちに輝元殿は天馬のごとく援軍をこちらに向けて、あまさきに陣を取り、仕置を行なって下さい」(『厚挟毛利家文書』46号、『萩藩閥閲』中世3)。

しかし、輝元は毛利軍を動かして七将と衝突することを恐れて、動けなかった。安国寺恵瓊山名禅高西笑承兌を動かして平和裏に事を収めようとした。

閏3月9日、三成は五奉行を解任された上で、居城の佐和山城に帰国することで事件は終了した。

その後、家康は伏見城西の丸に入り、この事件はそもそも蔚山城の戦いにおける軍監の福原、熊谷の両者による讒訴にあったとして、福原と熊谷は改易され、逆にこの蔚山問題で改易されていた早川と竹中の大名復帰、七将の正当化が認められた。

家康、天下殿へ[編集]

七将事件で、大老として七将と三成を軍事的衝突にまで至らせず、秀吉の裁定を覆した家康の手腕は、世間から高く評価された。『多聞院日記』慶長4年閏3月13日条では家康に対し、世間が「天下殿」になってめでたいという声を惜しまなくなったという。