宇喜多秀家
宇喜多秀家 うきた ひでいえ | |||||||||||||||||||||||||||||
宇喜多秀家像
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宇喜多秀家(うきた ひでいえ)とは、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将、大名である。宇喜多直家の嫡男。
生涯[編集]
1573年、岡山城にて出生。父は戦国武将の宇喜多直家。当時の宇喜多家は混乱状態にあり、毛利輝元の毛利勢を裏切り織田信長に寝返って、織田氏との友好関係を保っていた。1581年に直家が死んだ後、羽柴秀吉に家督存続を助けられて、当主となる。この時既に「家氏」と名乗っている。
1582年、家氏は元服して「秀家」と名乗る。そして当時秀吉にはねねとの間に子がいない状態のため、前田利家とまつとの間に生まれた四女・豪姫を秀吉が養子として迎えた。その養子を秀家に嫁がせ、秀家にも嫁ができた。
1584年に小牧・長久手の戦いが勃発すると、秀家は大坂城の守備につき、織田信雄率いる軍から大坂を守った。紀州征伐、九州平定の後、1588年の四国平定では讃岐国に上陸して長宗我部軍に応戦した。この頃、岡山城を大改修して現在の岡山城に仕立て上げている。
1591年、嫡男の宇喜多秀高が生まれる。その後秀吉に57万石まで加増され、秀吉の晩年は五大老にも任ぜされた。
関ヶ原の戦いでは西軍として、福島正則軍に鉄砲を撃ち戦いのホラを吹き、応戦した。この時秀家は38歳、1600年9月13日午前8時頃の事である。福島正則軍との戦いで撤退した秀家は小早川秀秋の裏切りを見て、「必ず秀秋をここで斬る」と決意したが、家臣に止められた。
結果的には東軍の勝利となり、秀家は薩摩藩に逃れるが見つかり、死罪も検討されたが結局八丈島に流刑されることとなった。八丈島では福島正則の家臣が持っていた酒などを飲んだり、妻の豪姫からの差し入れや島の役人からの食事など、健康的な生活を送った。ちなみに子の秀高もその島で暮らし、子孫は浮田に改姓したという。
1655(明暦元)年、83歳でこの世を去る。尚、83歳というのは稲葉一鉄や土岐頼芸、細川忠興と並んでのかなりの長生きであり、関ケ原の戦いに参加した大名としては最も遅くに没したと思われる。