鎌倉時代
鎌倉時代(かまくらじだい)とは、日本の時代区分である。
概要[編集]
12世紀末期に創設された鎌倉幕府が存在した、13世紀前後のことを指す時代区分である。
藤原摂関家の没落、院政の開始、平家の台頭といった為政者の交代が京で起きている間に、東国の豪族間でのパワーバランスが混乱し、多くの武士が中央に対して不満を持っていた。その中で、東国武士が源頼朝を担いで結集して新政府(鎌倉幕府)を成立させた。この新政府は承久の乱後に西国の朝廷や武士を支配し、日本国内の実権を握ったのが鎌倉時代である。
しかし、鎌倉幕府の御家人は分割相続を繰り返すうちに貧富の差が激しくなる一方、民間では貨幣経済の普及によって豊かになった勢力もあり、後期に幕府が出した永仁の徳政令もはね除ける格好となった。
この様な背景の中で、後醍醐天皇の倒幕計画に多くの武士が呼応し、鎌倉幕府は150年ほどで滅亡して。建武の新政を経て室町時代に移ることとなった。
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期間[編集]
始まり[編集]
かつては、後白河上皇の没後、源頼朝が征夷大将軍に叙せられた1192年とされていた。征夷大将軍叙任自体に大きな意味は無いが、1192が「いい国」と読め、語呂が良いから[要出典]1192年が鎌倉時代の始まりとされた。現在では、守護、地頭、政所などを設置した1185年とされることが多いが、諸説ある。
終わり[編集]
鎌倉幕府が滅亡した1333年。
政治体制[編集]
中央(鎌倉)[編集]
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地方[編集]
全国の令制国に守護が、荘園に地頭が置かれた。承久の乱後には京に六波羅探題が置かれた。
元寇収拾後は、長門探題、鎮西探題が置かれた。
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主な権力中心[編集]
鎌倉幕府ができた当初は、鎌倉殿と呼ばれた源頼朝を頂点とし、周りを東国武士が固める体制であった。しかし、頼朝死後、源氏直系の権力は長続きせず、東国武士連合の合議制による支配体制となった。この過程で多くの東国武士が粛清され、中盤は事実上の北条家(北条得宗家)支配となった。末期に近くなると、内管領などの御内人が幕府中枢を握り、北条氏一族が就いた執権すら名目的な存在になった。
粛清された貴族・豪族[編集]
- 1200年 - 梶原景時[1]
- 1203年 - 阿野全成[1]、比企能員[1]、仁田忠常[1]
- 1205年 - 畠山重忠[1]、稲毛重成[1]、平賀朝雅[1]
- 1213年 - 和田義盛[1]
- 1219年 - 阿野時元[1]
- 1246年 - 北条(名越)光時
- 1247年 - 三浦泰村
- 1285年 - 安達泰盛
宗教・文化[編集]
末法思想の広がりの影響を受けて、仏教の新宗派が多数誕生した。
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鎌倉時代の日本国外[編集]
中国では、12世紀末時点で、北部が金、南部が南宋の支配下にあった。しかし、源頼朝の弟、源義経がチンギスハンと名を変えて建国したらしい[要出典]モンゴル帝国が急激に勢力を伸ばし、中国全土からロシアに至るまでの世界史上最大の国を作り上げた。中国本土は元という王朝となり、その後何度も日本に攻め込むが(元寇)、失敗している。
東南アジアでは、ミャンマーのパガン朝が栄えていて、首都パガンは仏教の都として世界有数の大都市であったが、国は鎌倉時代中に滅びた。
中東では、シリアやエジプトあたりを最初アイユーブ朝、後にマムルーク朝が支配していて、聖地エルサレムをめぐってキリスト教圏の十字軍と何度も争った。
地中海西部は、ムワッヒド朝、後にマリーン朝がアフリカ北西部を支配していた。既にスペインのレコンキスタは進んでいて、イベリア半島は南部を除く大部分がカスティーリャ、アラゴン、ポルトガル領になっていた。
西ヨーロッパでは、12世紀末時点で、フランス西部の貴族プランタジュネ家が、フランスの西半分に加えてイギリスまで支配し、王家カペー家をもしのぐ勢力を持っていた。しかし、欠地王ジャンの時代にフランス側の領土の大部分を失い、領土はイギリス+α程度となった。日本で鎌倉幕府が滅亡し南北朝時代になるとほぼ同時期に、カペー家も断絶し、王位をプランタジュネ家とヴァロワ家が争う南北朝時代(歴史用語では英仏百年戦争)に突入した。