平頼綱

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
Wikipedia-logo.pngウィキペディアの生真面目ユーザーたちが平頼綱の項目をおカタく解説しています。

平 頼綱(たいら の よりつな、? - 正応6年4月22日1293年5月29日))は、鎌倉時代後期の武士政治家北条氏得宗家の御内人で、第8代執権北条時宗と第9代執権・北条貞時に仕えた。貞時の時代に乳母夫の地位を利用して権勢を誇り、さらに霜月騒動を引き起こして当時の有力御家人である安達泰盛を滅ぼして事実上の最高権力者として君臨するが、恐怖政治を展開して貞時に見限られて平禅門の乱によって誅殺された。

生涯[編集]

若い頃の動向[編集]

父は北条得宗家の執事を務めた平盛綱。通称は新左衛門三郎・新左衛門尉など。法名は果円。

第5代執権・北条時頼の時代である建長8年(1256年)1月に幕府御的射手を務めている。弘長3年(1263年)1月に御馬曳きを務めている。

時頼の次男・北条時宗の側近となり、文永8年(1271年)9月12日に時宗の命令で日蓮を捕らえ、鎌倉竜の口で処刑しようとしたが、事前に日蓮は流罪となっている。建治3年(1277年)10月、時宗私邸での寄合に出席していることが確認されるので、この時点で幕府の重要政務に参画していたものと推測される。

権力者となるも[編集]

弘安7年(1284年)に北条時宗が死去し、14歳の嫡男・北条貞時が跡を継いで第9代執権となった。同年7月、頼綱は貞時の乳母の夫だったことから得宗家執事に任命される。当時、幕府では元寇の戦後処理、特に恩賞問題などから有力御家人で貞時の外戚に当たる安達泰盛と、執事の頼綱が対立していた。弘安8年(1285年)11月、頼綱は貞時に讒言を行うことで安達氏の一族を滅ぼす許可を得ると、軍勢を差し向けて安達泰盛らを滅ぼした(霜月騒動)。

泰盛とその一族与党を滅ぼし失脚させて権力を得た頼綱だったが、その幕政は若年の貞時と得宗家の権力拡大を大義名分にして御家人を監視したり、時には排除したりするといういわゆる恐怖政治によるもので、これは多くの御家人から不満を招いた。しばらくは貞時が若年のこともあってこの体制は続いたが、貞時が成人しても頼綱は実権を手放そうとしなかったので、貞時からも不満を抱かれるようになった。なお、頼綱の頃から得宗家執事が「内管領」と呼ばれるようになったとされている。

正応6年(1293年)4月22日、鎌倉大地震に乗じて貞時は頼綱のいる鎌倉経ヶ谷の屋敷に兵を差し向けた。成人しても実権を返さず、恐怖政治を敷いて多くの不満が噴出していたことで貞時も遂に頼綱を見限ったのである。また、頼綱の嫡子である平宗綱が次男の飯沼資宗征夷大将軍に擁立しようと頼綱が計画していると密訴されたことも一因とされている。結局、頼綱と一族はかつての安達泰盛と同じように貞時によって滅ぼされたのである(平禅門の乱)。

平禅門の乱における死者は100人にも満たず、霜月騒動の際に安達氏に殉じた数と比較すると余りに少なすぎるものであり、これは頼綱主導の幕政がいかに人気が無かったかを示す証左となっている。頼綱の死後、貞時は実権を奪い返して親政を開始するが、これにより得宗家にさらに政治権力が集中して、後に幕政が腐敗してゆくことになる一因にもなった。

平頼綱が登場する作品[編集]

小説
  • 高橋直樹「異形の寵児」(『鎌倉擾乱』文藝春秋/文春文庫 所収)
映像