北条政村
北条 政村(ほうじょう まさむら、元久2年6月22日(1205年7月10日) - 文永10年5月27日(1273年6月13日))は、鎌倉時代前期から中期にかけての北条氏の一門。鎌倉幕府第7代執権(在職:文永元年(1264年) - 文永5年(1268年))。第2代執権・北条義時の5男。母は継室の伊賀の方。第3代執権・北条泰時は異母兄にあたる。幼少の得宗家北条時宗(泰時の曾孫)の代理として7代執権となり、辞任後も連署を務めて蒙古襲来の対処にあたり、一門の宿老として嫡流の得宗家を支えた。
略歴[編集]
父は第2代執権の北条義時で5男。母は義時の3番目の正室である伊賀の方。兄に泰時、朝時、重時、有時ら。弟に実泰、時尚ら。子に時村、政長、政頼、宗房、政方、北条実時室、北条宗政室、安達顕盛室、北条業時室、北条時茂室ら。
9歳の時に元服する。この際の烏帽子親は北条氏に次ぐ御家人であった三浦義村で、政村の「村」は義村の偏諱と見られる。仮名は四郎。なお、5歳上の異母兄である有時は仮名は六郎であり、母親の出自の差により有時より上位に置かれていたと見られている。なお、四郎の仮名は初代執権で祖父に当たる北条時政と同じであり、義時の仮名である「小四郎」に通じるものであり、『吾妻鏡』において政村は義時から「鍾愛の若君」として寵愛されていたという。
元仁元年(1224年)6月に父の義時が死去すると、第3代執権には異母兄の泰時が就任した。すると母親の伊賀の方、さらに伊賀光宗らによって泰時を排斥して政村を執権に、さらに将軍の九条頼経を廃して一条実雅を新将軍に擁立しようとするクーデター計画が練られた(伊賀氏の変)。この計画は泰時が叔父の北条時房、さらに伯母の北条政子の後見を受けたことから未遂に終わり、伊賀光宗、伊賀の方、さらに伊賀朝行、伊賀光重など伊賀氏の一族はことごとく役職を罷免された上で流罪に処された。一条実雅も京都に送還されて後に配流された。なお、政村に関しては『吾妻鏡』で三浦義村と密談していたとあるが、泰時は異母弟は無罪として処罰対象から外している。このため、政村は鎌倉に留まることになった。
政村は泰時の計らいもあって叙任、叙爵を受けて官位を昇進させた。さらに35歳で評定衆に任命されて、36歳の時には評定衆筆頭に任命される(『関東評定伝』)。仁治3年(1242年)6月に泰時が死去し、その孫の北条経時が第4代執権に就任した際も北条一族の重鎮として重用され、寛元4年(1246年)に経時が死去してその弟の北条時頼が第5代執権に就任した後も、同じように北条一族の重鎮として重用された。建長元年(1249年)に引付衆が設置されると、1番引付頭人に任命された。
康元元年(1256年)3月、兄で連署を務めていた北条重時が出家して退任したため、後任の連署に就任する。同年11月に第5代執権・北条時頼が病気により引退したため、第6代執権に甥の北条長時が就任すると、連署として長時を補佐した。しかし文永元年(1264年)までに重時、時頼、長時と幕府の重要な人物たちが相次いで死去したため、残っていた政村が長時の後を継ぐ形で第7代執権に就任した。これは時頼の嫡男である北条時宗がまだ若年で、本来なら成長するまでの代繋ぎであった長時も死去したため、政村が代繋ぎの役目を務めることになったとされている。なお、この際の連署は時宗が就任した。
4年後の文永5年(1268年)3月、政村は時宗と交代する形で執権と連署を入れ替わった。なお、執権から連署に再任された例はこの政村のみであった。以後も北条一族の長老として幕政に影響力を保持した。文永9年(1272年)の二月騒動にも関与している。文永10年(1273年)5月18日に政村は病気を理由にして連署を辞職して出家する。そして5月27日に死去した。69歳没。
家系[編集]
政村流北条氏の祖であり、第12代執権・煕時は曾孫にあたる。血縁的には第10代師時は孫、第13代執権・基時は曾孫[注 1]である。
政村の家督(北条氏 (政村流))は長男の北条時村が継いだが、政村の死から32年後の嘉元3年(1305年)4月の嘉元の乱により殺害されている。
人物像[編集]
公家の吉田経長は政村の死去を知ると、自らの日記に「東方の遺老なり。惜しむべし、惜しむべし」と記している。また朝廷はその訃報を理由に議定を延期して弔問使を派遣するなど、当時から政村の存在が重く見られていたことを伺わせている。政村が異母兄・北条泰時の家系である得宗家に忠実に働いたのはかつて泰時が伊賀氏の変で自分を助けてくれたからであると言われており、その生涯はまさに得宗家の確立に尽くしたものであった。