一遍

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一遍(いっぺん、延応元年(1239年) - 正応2年(1289年)8月)は、鎌倉時代中期の僧侶時宗の開祖として知られる。

略歴[編集]

父は河野通広幼名は松寿丸という。数えで10歳の時である宝治2年(1248年)に母が死去したため、出家して僧侶となり、随縁と号した。建長2年(1250年)、筑前国聖達を訪ね、さらに肥前国を訪れて華台の弟子となり、この際に名も智真と改めた。弘長2年(1263年)、父が死去したため伊予国に戻って還俗した。

しかし4年後の文永4年(1267年)、再度出家すると、今度は弟の聖戒を連れて聖達の下を訪れ、文永8年(1271年には信濃国善光寺に参篭し、には伊予窪寺に庵を結んで念仏三昧と山林の修行に明け暮れ、こうして信・不信・出家・在浴・有智・無智に関わらず、南無阿弥陀仏の名号を唱えれば全ての者が往生できるとの信念を得るようになる。文永11年(1274年)、岩屋寺に参篭し、文永12年(1275年)2月に超一超二念仏房を伴って遊行に出発する。四天王寺高野山を訪れた後、に熊野に至って証誠殿で100日参篭を行なった。この際に、熊野権現より衆生の往生は名号によって定まっているのだから、信、不信、浄、不浄の別なく人々に南無阿弥陀仏の賦算を行なうようにとの神託を受けたとされ、名を一遍と改めて、全てを捨てて遊行を続けた。

建治元年(1275年)に伊予に帰国するが、建治2年(1276年)に聖達を再度訪ね、大隅国から豊後国へ遊行し、他阿弥陀仏(真教)を弟子とする。弘安2年(1279年)、京都から信濃の善光寺へ向かう途中の信濃佐久郡小田切の武士の館において踊念仏を開始し、弘安3年(1280年)に奥州江刺郡祖父河野通有の墓を供養する。さらに平泉松島をめぐり、弘安5年(1282年)には鎌倉に入ろうとするも拒否された。

弘安7年(1284年)、京都の市屋道場で舞台を組んで踊念仏を披露し、人々の熱狂的な支持を得る。その後、四天王寺を拠点にして和泉国河内国大和国播磨国など畿内やその近国の社寺を訪れ、正応元年(1288年)には伊予大三島神社に参詣する。

正応2年(1289年)、讃岐国から阿波国に遊行するが、この頃から病がちとなり、8月に兵庫和田崎の観音堂において遂に死去した。享年51。死に臨んで、自らが秘蔵していた経典などは全て焼き捨てさせたという。

布教活動について[編集]

一遍の布教の対象は、女性非人乞食などの社会的弱者であり、市場や宿駅、村などを布教の場所とした。しかしこれは当時の権力者層に当然のように弾圧や妨害を受けることになり、一遍はそれでも念仏をひたすら唱えて賦算を繰り返し、遊行に明け暮れた一生を送り続けたという。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]