北条長時
北条 長時(ほうじょう ながとき、寛喜2年2月27日(1230年4月11日) - 文永元年8月21日(1264年9月12日))は、鎌倉時代中期の武将。北条氏の一門。鎌倉幕府第6代執権(在職:康元元年11月22日(1256年12月10日) - 文永元年(1264年))である。居所から赤橋 長時(あかはし ながとき)とも称される。得宗家以外で初めて執権となった人物である。
略歴[編集]
父は北条重時。母は平基親の娘・治部局。兄に為時、弟や姉妹に時茂、業時、義政、忠時、葛西殿(北条時頼室)、安達泰盛室、宇都宮経綱室ら。子に義宗[注 1]、長弁。
長時は次男であり、長兄に2歳年上の為時がいたのだが、この為時は病弱だったことから重時より嫡男に選ばれた。母親の平基親は下級貴族で、九条家の家司を務めた縁がある。同母弟に時茂、同母妹に葛西殿がいる。
寛喜2年(1230年)3月に重時が六波羅探題北方として上洛した際に長時も同行して上洛。以後、寛元2年(1244年)と宝治元年(1247年)に鎌倉に下向する以外は京都で父の補佐役として働いていたと見られている。なお、2回目の鎌倉下向の年の3月に、京都で一族の北条時盛の娘と結婚している。
父の重時は長時に対して『六波羅殿御家訓』と言われるものを残しており、これは43か条からなる出仕における振る舞い、交際における心構え、従者を召し使う際の心得、酒席での作法などを指示しているものである。このことから、長時は父から期待されていたものと見られている。
宝治元年(1247年)7月、宝治合戦の後に重時は17年間務めあげた六波羅探題北方の職を退任して連署に昇格したため、鎌倉に戻ることになる。六波羅探題北方の後任には長時が任命された。長時在任中、同南方は不在であり、事実上単独の探題として長時は重職を務めることになる。この時期の朝廷では後嵯峨上皇による院政が行なわれており、長時は上皇とは協調関係を維持することに努めた。長時は父親と同じ歌人であったことから、勅撰集や私撰集に26首の作品が採録されているが、この歌人という関係を利用して上皇との協調を維持したものと考えられている。
康正元年(1256年)3月、連署を務めていた父の重時が退任して北条政村がその後任となる。そして11月には第5代執権の北条時頼が重病により引退し、後任の第6代執権に長時が選ばれた。時頼はこの時まだ30歳の若さであったが、度重なる病に襲われていたことから執権を辞職して出家することを望んでいた。しかし後継者である嫡男の北条時宗はこの時まだ6歳で到底執権を担えるはずもなく、時頼は時宗が成長するまでの繋ぎとして長時を後任に選んだと言われている。これは長時が時頼を連署として長く補佐した重時の嫡子であり、また時頼の正室で時宗の生母である葛西殿の兄(つまり時頼の義兄、時宗の伯父)にあたることから、選ばれたと見られている。『吾妻鏡』では長時の立場を「家督幼稚之程眼代」と記録しており、長時はあくまで代つなぎであった。
しかし、重病に倒れて最早回復の見込みは無いとまで見られていた時頼が、その後健康を回復して政治活動ができるようになると、幕政の実権は退任した時頼があくまで掌握し、長時は単なるお飾りに過ぎなかった。『保暦間記』でも時頼が主導権を掌握していたことが記録されている。このため、長時の執権在職の間は特に見るべきところが無い。
弘長元年(1261年)に父の重時が、弘長3年(1263年)には義弟の時頼が相次いで死去している。そして長時は文永元年(1264年)に急病により出家して法名を専阿と号し、同年8月21日に浄光明寺で死去した。35歳没。浄光明寺には長時の僧侶としての木像、並びに位牌が現存している。
長時が死去した時点で時宗はまだ14歳の若さだったため、執権職を担うにはまだ若いと見られて連署の北条政村が昇格して第7代執権となり、時宗が後任の連署となった。