源平内乱時代

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保元の乱・源平内乱
倶利伽羅峠の戦い.jpg
倶利伽羅峠の戦い
勃発1160年1月19日
終息1192年8月21日
国の指導者(天皇)二条天皇 1158-1165
六条天皇 1165-1168
高倉天皇 1168-1180
安徳天皇 1180-1185
後鳥羽天皇 1183-1198

源平内乱時代(げんぺいないらんじだい)とは、平安時代後期・1160年平治の乱から源頼朝鎌倉幕府を開くまでの1192年まで続いた日本で2番目の武士により主に区分されていた戦乱の時代である。平氏源氏の勢力に分かれ、32年間もの間平清盛平維盛率いる軍団に源氏は歯向かった。

概要[編集]

1155年鳥羽天皇が政権を後白河天皇に譲り、天皇になったが、元の約束では崇徳天皇(後白河天皇の兄)の子が次の天皇になるはずであった。これを気づいていても認めなかった鳥羽天皇に対して崇徳天皇は後白河天皇と対立した。そこで両者は有力人物をスカウトし戦を仕掛けることとした[1]

後白河天皇側には関白藤原忠通がつき、崇徳天皇側には藤原頼長がついた。しかし両者とも決着がつきそうに無かった為、有力な武将を集める事にした。後白河天皇側には源義朝・平清盛軍がついた。源為朝源為義軍がついた。これにより戦いの準備が整った両者は遂に1156年保元の乱を起こしたのである。戦いの最後、後白河天皇軍は夜襲で崇徳天皇軍を襲撃し、後白河天皇軍は圧勝した。

夜襲で特に有力な活動をした清盛には正四位下播磨守、義朝には正五位下佐馬守の役職を与えられた。1158年、後白河天皇が二条天皇に政権を譲ると同時期に藤原信頼が義朝に対して朝廷転覆計画を話し、決行された。そして後白河上皇と二条天皇は人質に取られた。ここで起こったのが平治の乱である。

それを知った清盛は一瞬にして義朝軍に駆けつけ、義朝軍を攻撃した。結果的には義朝軍が負けた。ここで義朝が負けた理由には三条殿が焼けたことや、二条天皇と後白河上皇が取られていたところから脱走した事で力を失ったのが負けた理由とされる。

北条政子墓

これを称えた二条天皇は清盛に正三位、さらには太政大臣職を与え、朝廷の有力貴族となった。一方源氏の義朝はそこで平氏軍に殺され、子の源頼朝は伊豆半島に流された。1177年頃、伊豆で出会った北条政子と頼朝は婚約し、頼朝が死ぬまで政子は付き合うこととなった。

1180年皇太子以仁王令旨を出し、源氏、またはその見方に挙兵するよう命じた。そして指導者となる頼朝が挙兵し、その他源義経源義仲武蔵坊弁慶那須与一土肥実平などが参戦した。初期の戦である石橋山の戦いでは北条館から頼朝は山木館の戦いで勝利し、石橋山に向かった。その時に伊東氏大庭氏の到着により戦いが始まった。しかし味方の三浦氏酒匂川で停滞した事により源氏軍は戦いに不利になり、途中で逃亡した。その時に真鶴にある土肥椙山巌窟(通称・ししどの岩屋)にて隠れた。しかし平氏方につく梶原景時が岩屋に侵入する。景時は頼朝がそこにいるのを見逃して、源氏方に寝返った。三浦軍が衣笠城の戦いで勝利した後、頼朝は真鶴沿岸から船で房総半島に行きつき、千葉常胤上総介広常が味方についた。

富士川の戦いでは房総半島から迂回した頼朝軍が東国武士30000余を味方につけ、富士山麓の戦いに勝利したのちにその勢いで平氏軍を倒した。

脚注[編集]

  1. これは応仁の乱での事例と似ている