総見記
総見記(そうけんき)とは、戦国大名の織田信長に関する史料である。
概要[編集]
著者・成立年代[編集]
著者は遠山信春。成立年代は江戸時代前期から中期にさしかかる貞享2年(1685年)。
遠山は戦国時代の代表的存在である信長の実紀が無いことを常々嘆いており、そんな中で小瀬甫庵の『甫庵信長記』を見て、その著書の省略した部分や誤りを補完、あるいは削除し、さらに古老の伝えと記録を勘案して実事を輯録して「増補信長記」を著した。そしてこの作品をさらに改めて「総見記」としたという。こうして完成した総見記を貞置という老人に検閲してもらって訂正を依頼し、貞置は1年がかりの作業をかけ、織田氏の一族にも総見記を検閲してもらって、その結果、協力者からは「信長の作品として非常に正確であるとして皆感嘆した」という。なお、貞置に関しては「信長の庶孫」とある。
この作品は江戸時代の後代作品であるためか、とにかく史料の信頼性を強調するために様々な記録を付加している。これ以外にも、「総見記は8年かけて草稿を仕上げて信長の全書たらんと願い、内容は信長の尾張国在住の時期の事績を5巻、美濃国在住時期を10巻、近江国在住時期を8巻に分けて合わせて23巻とし、信長の諡(総見院)によって『総見記』と命名した」としている。
ただ、遠山が前段階で完成させた『増補信長記』は『総見記』とは明らかに別のものが現在は存在しており、それがどのようなものだったのかなどは不明である。
別名は『織田軍記』(おだぐんき)、『織田治世記』(おだちせいき)。
内容[編集]
全23巻。戦国の覇王である織田信長の軍記的伝記の集大成である。
前述しているように、内容は信長の尾張国在住の時期の事績を5巻、美濃国在住時期を10巻、近江国在住時期を8巻に分けて合わせて23巻としている。つまり、三部作と見てよい。
- 巻1 - 「織田氏家伝事」から始まり、信長の出生、元服、斎藤道三の娘・濃姫との結婚、父・織田信秀の死去、御守役である平手政秀の自害まで、
- 巻2 - 織田一族の内紛。特に信長の同母弟・織田信行の殺害を中心とする。
- 巻3 - 今川義元との対決から桶狭間の戦い、松平元康との和睦。
- 巻4 - 美濃の斎藤氏の内紛について。道三が嫡男・斎藤義龍に殺され、信長は道三の仇を討つために美濃に出陣するも戦果が挙がらず、木下秀吉に砦を築かせるところまで[注 1]。
- 巻5 - 信長の美濃・および伊勢国侵攻について。信長の稲葉山城攻めと北伊勢の戦いが中心。
- 巻6 - 足利義昭の動向、近江国の六角氏の内紛、浅井氏と朝倉氏との関係、つまり信長ではなく、当時の近江情勢について述べている。
- 巻7 - 義昭が越前国から美濃国に動座。信長の上洛。
- 巻8 - 本圀寺の変、信長の二条御所建設、大河内城の戦いで北畠具教に勝利し、和議を結ぶまで。
- 巻9 - 元亀元年(1570年)の浅井長政・朝倉義景との戦い。金ヶ崎の戦いなど。
- 巻10 - 姉川の戦い。三好三人衆の反攻。
- 巻11 - 志賀の陣、信長包囲網の形成、正親町天皇による勅命講和、比叡山延暦寺の焼き討ちなど。
- 巻12 - 足利義昭との対立。武田信玄の出陣と三方ヶ原の戦い。信玄の死と義昭が信長により京都を追放されて室町幕府滅亡まで。なお、信玄が信長を批判した義昭宛の訴状、そしてそれに対する信長の反論である返書が載せられている。
- 巻13 - 浅井長政、朝倉義景の滅亡。
- 巻14 - 天正2年(1574年)元旦から開始。この際に義景・長政・久政の3人の金箔を付けた髑髏杯を出したこと、正倉院の蘭奢待を信長が切ったこと、越前一向一揆や伊勢長島一向一揆との戦い。長島一向一揆の滅亡。信長の上洛と畿内における敵勢力に対する出兵など。
- 巻15 - 武田勝頼との戦い。特に長篠の戦いが中心。その後、越前一向一揆の鎮圧。
- 巻16 - 天正4年(1576年)の安土城普請開始。石山本願寺・毛利輝元との対立。毛利氏による石山本願寺への兵糧入れと毛利氏の由来について。信長の内大臣就任まで。
- 巻17 - 信長の紀伊国雑賀党攻め、松永久秀の謀反と信貴山城の戦いが主に中心。その後、羽柴秀吉が信長の命令で毛利氏征伐に出陣して播磨国に下向し、同国の守護だった赤松氏の由来と上月城の落城について。
- 巻18 - 天正6年(1578年)の播磨をめぐる織田(羽柴)と毛利の戦いについて。別所長治の離反と戦い、山中幸盛の最期、荒木村重の謀反まで。
- 巻19 - 天正7年(1579年)が中心。信長の命令で丹波国を攻めていた明智光秀は、八上城を開城させるために自らの母親を人質に差し出し、母親は後に殺されることになる[注 2]。その後、荒木村重の逃亡[注 3]と、村重の一族の処刑まで。
- 巻20 - 天正8年(1580年)正月の三木城落城から。石山戦争の終焉。信長の重臣・佐久間信盛と林秀貞の追放まで。
- 巻21 - 天正9年(1581年)の1年間の記事。京都御馬揃えから徳川家康の高天神城攻め、秀吉の鳥取城の戦い、天正伊賀の乱の終焉。
- 巻22 - 天正10年(1582年)1月から5月まで。信長の武田征伐により勝頼が自害し、武田氏滅亡。恵林寺焼き討ち。
- 巻23 - 家康の安土来訪とその歓待。光秀は信長の命令で秀吉の後詰として派遣されるが、光秀は愛宕山に登って信長への反逆を決意。そして本能寺の変で信長を討った。その後、秀吉は毛利氏と和睦して中国大返しを敢行し、山崎の戦いで光秀は敗れて敗走中に土民に討たれるという哀れな最期を遂げる。秀吉は信長の葬儀を行い、正親町天皇は信長に対して太政大臣と従一位の贈位贈官を行うところまで。
文章などから、恐らく太田牛一の『信長公記』や『新撰信長記』、さらに総見記とは別の『増補信長記』から採っているものがある。信長の事績だけではなく、秀吉や家康、信玄や室町幕府についてのことも描いている。ただ、後代史料の上、ただでさえ信頼性が低い小瀬甫庵の『甫庵信長記』から採ったものもあるため、史料性はそこまで高いものではない。