北畠具教

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北畠 具教(きたばたけ とものり、享禄元年(1528年) - 天正4年11月25日1576年12月15日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名公家伊勢国司北畠家の第8代当主。父は第7代当主・北畠晴具。弟に木造具政具親。子に具房長野具藤親成、雪姫(織田信雄正室)、不破直光室、津川義冬室、徳松丸、亀松丸、東嶽(説)野呂正景室ら。

生涯[編集]

北畠晴具の長男で、伊勢国司、中納言の地位にあり、伊勢多芸城主であったことから多芸御所と称された。法名は不智。天文6年(1537年)にその家格ゆえに10歳の若さで叙任。以後、天文21年(1552年)に参議・左中将に、天文23年(1554年)に従三位権中納言に叙任される。

天文年間から父・晴具に従って安濃郡長野工藤氏と戦い、永禄元年(1558年)に和議を結び、この際に次男の長野具藤長野藤定養子に入れた。さらに北伊勢の進出して関氏と戦い、勢力を拡大する。

永禄12年(1569年)に尾張国織田信長の侵略を受け、兵力の差は歴然としていることから大河内城に籠城して織田軍を迎え撃ち、50日余りに及ぶ徹底抗戦を展開する。しかし、実弟の木造具政に背かれるなど戦況の悪化もあり、最終的には信長と和睦してこの際に信長の次男・織田信雄婿養子として受け入れて家督を譲っている。その後、多気郡三瀬に隠居した。

しかしその後、信長包囲網の中で信長が多くの敵対勢力と戦っていた際に、武田信玄らと内通して密かに旧臣を扇動したりしていたという(『甲陽軍鑑』)。また、隠居に追い込まれたとはいえ、北畠家における具教の影響力はなおも保持されており、必ずしも信雄に実権が握られているわけでもなかったようである。これらが信長の怒りを招いたのか、天正4年(1576年)11月に信長・信雄父子の意を受けた元家臣らによって三瀬御所を襲撃されて、具教は抵抗するも遂に切り伏せられて死去した(三瀬の変)。享年49。