北伊勢の戦い

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北伊勢の戦い
戦争: 北伊勢の戦い
年月日: 永禄10年(1567年8月 - 永禄11年(1568年
場所: 日本国旗.png日本伊勢国北部(現在の三重県北部)
結果: 織田軍の勝利
交戦勢力
織田信長 北伊勢国衆
指揮官
織田信長
滝川一益
神戸具盛
山路弾正
関盛信
細野藤敦
長野具藤
戦力
数万騎 不詳
損害
不詳 不詳

北伊勢の戦い(きたいせのたたかい)とは、戦国時代の永禄10年(1567年)から永禄11年(1568年)にかけて行なわれた織田信長軍と北伊勢国衆による戦いである。

概要[編集]

信長が攻める前の伊勢情勢[編集]

織田信長が侵攻する前の伊勢は、国司北畠具教が南部の5郡を支配して強大な勢力を誇っていたが、伊勢全土を支配するまでには至らず、北部8郡には長野工藤氏関氏神戸氏などといった古くから伊勢に土着していた名族が小領主を率いて割拠し、争っていた。ただ、そのうちの長野工藤氏は北畠氏の征服されて具教の次男・長野具藤養子に入れていたので、やはり伊勢では北畠氏の勢力が最も大きかったといえる。

当時の伊勢情勢については、江戸時代に成立した『勢州軍記』を頼らざるを得ない。なぜか『信長公記』に伊勢侵攻に関する記述が無いからである。

侵攻開始[編集]

『勢州軍記』によると、永禄10年(1567年)8月に信長は美濃尾張の兵を主力とした数万騎を率いて北伊勢に侵攻したとある。信長率いる織田軍は、まず桑名に侵攻し、周辺の小領主を次々と降参させていった。続いて楠城高岡城などを攻撃している。そして北伊勢の押さえとして重臣の滝川一益を伊勢・尾張・美濃の境に配置したとある。

一次史料あるいはかなり信頼性の高い史料で確認すると、『富士見道記[1]で「永禄10年8月中旬に信長が伊勢に出陣し、長島周辺を放火した」とある。また、永禄10年4月18日付で滝川一益の家臣(奉行)2人が大福田寺宛の禁制を出していることから、北伊勢侵攻があったのは事実だと思われる。ただ、永禄10年の伊勢侵攻は北伊勢の小土豪程度を支配下に置いた程度の小規模な戦いであり、『勢州軍記』にあるように数万も信長が率いていたのかには疑問符を付けざるを得ない。

永禄11年の侵攻[編集]

永禄11年(1568年)2月、信長は再度北伊勢に侵攻し、まずは鈴鹿郡河曲郡に割拠していた神戸氏とその一族の関氏を攻撃した。

最初に攻めたのは神戸氏の家老・山路弾正が守備していた高岡城であったが、堅く守備したので落とせなかった。また、神戸城も当主の神戸具盛が固く守って容易には落とせなかった。

しかし、美濃と尾張を制圧して数万の兵力を率いる織田軍にもともと兵力では圧倒的に不利であった神戸具盛は、次第に気弱になった。信長は具盛に自らの3男・信孝を養子に迎えることを条件にして和睦を申し入れた。後詰の見込みが無い具盛はこれを受け入れて開城し、神戸氏は信長に降った。これに従って、神戸氏の家臣の峯氏国府氏鹿伏兎氏なども降伏した。しかし、関氏の当主・関盛信は実を言うと継嗣の無かった具盛の養子として自分の息子を入れる話が進んでいたのを信長に奪われたことに不満を抱き、六角氏と通じてしばらくは信長に抵抗している。

織田軍は次に安濃津城を攻めた。ここを守るのは長野工藤氏の重臣・細野藤敦である。長野工藤氏は菴芸郡安濃郡を支配していた国衆であった。藤敦は長野工藤氏の本隊、並びにその実家の北畠氏の後詰を期待して抵抗した。

ただ、当時の長野家当主の具藤はまだ10歳の少年でとても指揮はとれない。しかも実を言うと北畠氏が長野工藤氏を制圧した際、前当主の長野藤定、前々当主の長野稙藤が不審な死に方をしており、北畠氏による暗殺では無いかという疑いも持たれていた。このようなことから長野家中は団結した態度がとれなかった。細野藤敦には弟に分部光嘉がいたが、光嘉は藤敦と違って信長との講和派であった。光嘉は北畠氏の支配に不満を抱く老臣と謀って具藤から家督を奪って追放すると、信長に対して神戸氏と同じように信長の親族から新君主を迎えたいと願い出た。信長はこれに応じ、弟の信包を長野工藤家の養子として入れ、さらに藤定の娘を妻に迎えさせた。こうして長野工藤氏は屈服し、その一族や家臣の雲林院氏草生氏家所氏、細野氏、乙部氏中尾氏らも信長に降った。

こうして、信長は養子戦略によってほとんど被害を出すことなく、北伊勢を制圧した。

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

  1. 連歌師・里村紹巴の日記

参考文献[編集]