信貴山城の戦い

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信貴山城の戦い
戦争: 信貴山城の戦い
年月日: 天正5年(1577年10月
場所: 日本国旗.png日本大和国・信貴山城(現在の奈良県生駒郡平群町
結果: 織田軍の勝利、松永氏の滅亡
交戦勢力
織田氏 松永氏
指揮官
織田信長
織田信忠
明智光秀
羽柴秀吉
佐久間信盛
細川藤孝
筒井順慶
松永久秀
松永久通
戦力
約40000 約8000
損害
不詳 松永久秀自害、松永久通処刑

信貴山城の戦い(しぎさんじょうのたたかい)とは、天正5年(1577年)10月に行なわれた織田信忠率いる織田軍と松永久秀率いる松永軍の戦いである。この戦いで松永久秀は自害し、戦国大名としての松永氏は滅亡した。

概要[編集]

合戦までの経緯[編集]

天正5年(1577年)、越後国上杉謙信が信長と断交し、能登国七尾城を包囲した。当時、能登国は畠山氏の領国だったが、実権は重臣の長続連が掌握しており、続連は次男の長連龍安土城に派遣して援軍を要請。謙信の勢力拡大を望まない信長はこれに応じて、柴田勝家を総大将として羽柴秀吉、明智光秀、滝川一益など織田の主要な武将が率いる大軍を能登に差し向け、信長自らも本隊を率いて北陸に出陣した。

ところが、この援軍は謙信と通じた加賀一向一揆の妨害にあって進軍ははかどらず、しかも進軍の途上で勝家と秀吉が対立して、秀吉が自身の部隊を率いて勝手に戦線離脱するという状態であった。これについては『信長公記』に記述があるほか、信頼性に疑問がもたれる『武功夜話』には「畿内で松永久秀が不穏な動きを見せているのを秀吉が察して、勝家に退却するように進言したのに聞き入れなかった」としている。『武功夜話』の信頼性の低さからこれは後代の作り話だと思われるが、北陸に出陣する予定だった信長の出陣が突如として中止されているので、久秀の謀反は事実だと思われる。

久秀は信長と足利義昭が対立し、信長包囲網が敷かれて信長が危機的状況になった際、信長から離反して義昭に属した。しかし、この包囲網は武田信玄の死去により一気に崩壊し、義昭が信長によって京都から追放されて室町幕府が滅亡すると、久秀は自身の居城であった多聞山城を開城して信長に降った。信長は久秀を助命したがその条件として、居城の多聞山城並びに久秀の財産の大部分、そして大和国の一職支配権も没収した。

助命されたものの織田政権内における久秀の地位は一気に低下した。そのためか、この直後から久秀の名前はしばらく記録に現れなくなる。久秀の名前が久しぶりに現れるのは天正4年(1576年)。信長の命令で佐久間信盛を総大将とした織田軍による石山本願寺攻めで天王寺砦における織田軍の武将としてである。ここには久秀の嫡男・久通の名前もあり、松永父子は佐久間の与力として付属されていたと見られている。

天正5年(1577年8月17日、久秀は久通と共に天王寺砦から突如抜け出し、自軍を率いて信貴山城に籠城した。久秀のこの行動は、石山本願寺と通じてのものと見られているが、一説に上杉謙信とも連絡を通じ合っていたのではないか、と見られている。つまり、松永に石山本願寺、それに上杉と連携して信長を挟撃する作戦であったと見られている。

合戦[編集]

信長は久秀の離反を知ると、直ちに北陸出陣を中止。まずは松井友閑を派遣して久秀に対して謀反の理由や言い分を聞き、宥めることに努めた。しかし、久秀は松井の言葉を無視して謀反の意思を翻そうとはしなかった。

信長は久秀の決意を知ると、まずは久秀から預かっていた人質である久秀の孫2人を京都六条河原処刑した。ただ、それから1か月は様子を見ていた。恐らく謙信の動きを警戒して主力の軍勢を近江国に温存しておく必要があったためと推定される。

秀吉が戦線離脱した勝家率いる織田軍は、9月23日手取川の戦いで謙信に大敗した。しかし、謙信はそれ以上は南下せずに加賀国北部まで勢力圏を確保すると、能登に引き揚げた。これについては間もなくとなり、北陸の雪は深くこのまま近江に出たとしても兵站が断ち切られて上杉軍が孤立してしまうこと、そして何よりかつて永禄の変足利義輝を暗殺したのが久秀であり、その義輝から手厚い恩義と厚誼があった謙信にとって久秀はある意味信長以上に許せない人物でそもそも連携などあり得なかったのではないかと思われる。

信長は謙信が南下をやめて引き揚げたのを知ると、10月1日に嫡男・信忠を総大将に明智光秀、羽柴秀吉、佐久間信盛らを付けた大軍を信貴山城に差し向けた。信長はこの時点で安土に残留していた。信忠率いる織田軍は久秀方の片岡城を攻め落とすと、10月3日に信貴山城を包囲した。

そして10月10日の夜、織田軍は総攻撃をかけて信貴山城の運命は極まった。信長の意を受けていた信忠は、久秀に対して天下の名物である平蜘蛛の提出を条件に助命することを約したが、久秀は拒否して平蜘蛛もろとも運命を共にしたという。この際の久秀の最期は「火薬を用いての爆死」とする説もあるが、単に久秀は城に火をかけて自害して果てたとする説が近年では有力視されている。久通については久秀と共に自殺したとも、大坂を目指して逃げ延びる途中に織田軍に捕捉されて殺されたともいわれている。こうして、三好政権の時代から畿内に大きな勢力と影響力を行使した松永氏は滅亡し、大和は完全に織田政権の支配下に入った。

なお、久秀の死去した10月10日は、ちょうど10年前の永禄10年(1567年)の同日に三好三人衆との戦いの際に久秀が東大寺大仏殿を焼き払った日であった。そのため、当時の人々は因果応報、春日明神のなす業であるとしてその報いを怖れたという。

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

参考文献[編集]

外部サイト[編集]

関係事項[編集]