武蔵国
武蔵国(むさしのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。武州(ぶしゅう)とも呼ばれる。
概要[編集]
武蔵国は現在の東京都、埼玉県と神奈川県川崎市、横浜市の大部分を含み、延喜式の等級区分では大国とされていた。
隣接の令制国[編集]
歴史[編集]
534年(安閑元年)「武蔵国造の乱」が勃発した。これは笠原直使主と同族の小杵が武蔵国造の地位を争った事件であった。その結果、小杵は滅ぼされ、使主が国造の地位に就任したとされる(『日本書紀』安閑元年閏 12月是月条)。武蔵国造の本拠地は現在の埼玉県行田市と考えられており、埼玉古墳群は一族の墳墓とされる。
701年(大宝元年)の大宝律令の制定・施行時点では无邪志(むざし)、胸刺(むさし)、知々夫(ちちぶ)の3つに分かれていた。
大化改新(645年)から一つの国になった。713年(和銅6年)に「武蔵」の字が当てられた[1]。武蔵国に多磨・荏原・豊島(以上、現東京都)、都築・久良[2]・橘樹(以上、現神奈川県横浜市と川崎市)、足立・新座(もと新羅)・入間・高麗・比企・横見・埼玉・大里・男衾・幡羅・榛沢・賀美・児玉・那珂・秩父(以上、現埼玉県)の21郡があった。武蔵国が成立したのは7世紀頃とされる。
律令制下では、初め東山道に属し、上野国から国府への道が分岐したが、771年(宝亀2年)10月より東海道に属した。武蔵国府は多摩郡(現在の府中市、現在の大国魂神社境内とその東側隣接地)、奈良時代の741年からは武蔵国分寺が現在の国分寺市に置かれた。中世以降、武蔵一宮は氷川神社(さいたま市大宮区)と小野神社(多摩市)に置かれた。
武蔵国への移住策は何度も行われた。例として684年(天武十三年)五月に百済僧尼と一般男女23名を武蔵国に移住させた[3]。また687年(持統元年)に新羅僧尼と農民男女22名を武蔵国に移住させた[4]716年(霊亀二年)には、関東各地(7カ国)に住んでいた「高麗人」1,799人が武蔵国に集められ、「高麗郡」を創設した。
鎌倉時代の武蔵国は源頼朝の直轄地であった。
鎌倉時代の武蔵国の国司は北条氏が勤めており、北条時房は1210年から1217年まで武蔵守であった。
室町時代の1457年に太田道灌が江戸城を築城した。その後、1524年以降に江戸城は北条氏の支城となり、遠山氏が江戸城を改修した。戦国時代には令制国は行政区分としての機能を失い、たんに地域区分に過ぎなかった。
安土桃山時代、1590年(天正十八年)7月13日、徳川家康は関東に転封になり、豊島郡(後に南豊島郡を経て豊多摩郡)の江戸を根拠地にした。駿府城から家康が江戸城に移った頃は、すでに荒れ果ていたと言われる。
下総国と武蔵国との国境は、3河川(利根川、荒川、太日川)の河口で葦やヨシの生える湿地帯だったと伝えられる。
1590年(天正18年)に江戸に入った徳川家康は、関東郡代に伊奈備前守忠次を任命し、利根川東遷事業を行わせた。これは利根川を銚子方面に流れを変えるものであった。その目的は、江戸を水害から守り、新田開発を促進するためであった。江戸の拡大[注 1]も兼ねており、下総国の一部を編入して葛飾郡を創設した。これは、現在の東京都の江東区・墨田区・江戸川区・葛飾区および埼玉県の江戸川西岸(吉川市、幸手市など)に相当する。
幕末には武蔵国南端の久良岐郡[注 2]横浜村が開港場となり、日本の文明開化の先駆けを成した重要な地となった。
江戸時代末期の武蔵国域は平安時代の武蔵国とほぼ同じ(ただし葛飾郡が加わる)であった。 明治時代の初期に武蔵国は1府2県に分割され、面積の広い多摩、豊島、足立、埼玉、葛飾の各郡は複数の郡に分割され、新座、高麗、榛沢、幡羅、男衾のなどの郡は他郡に吸収された。明治時代半ばまでは「武蔵国○○郡○○町」というふうに令制国の住所表記であった。例として、1890年(明治23年)9月25日の「勅令第213号(埼玉県庁位置改定ノ件)」では、埼玉県の県庁位置は武蔵国北足立郡浦和町とされていた。現在でも武蔵村山市、武蔵野市などに武蔵国の名残が残る。
脚注[編集]
- 注
- 出典