長州藩

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長州藩(ちょうしゅうはん)とは、江戸時代を通じて長門国周防国を支配したである。居城を長門国萩城に置いたことから萩藩(はぎはん)とも、外様大名毛利氏が藩主家を務めたことから毛利藩(もうりはん)とも言われる場合がある。幕末には雄藩に成長し、討幕を担う大勢力になった。現在の山口県萩市を本拠とした。

概要[編集]

戦国時代以前[編集]

周防国長門国は、西日本最大の守護大名であった大内氏の本拠地であった。特に山口は大内氏のお膝元として、「西の京都」と呼ばれるほど繁栄していた。しかし、大内義隆の時代に没落を初め、結局、義隆の死後に毛利元就に滅ぼされた。

立藩[編集]

毛利氏は戦国時代、毛利元就の時代に中国地方の覇者に成長した。元就の死後、中央で織田信長の勢力が成長し、その家臣の羽柴秀吉の侵攻を受けると毛利氏は滅亡直前まで追い詰められたが、本能寺の変で信長が横死することでこれを乗り切り、信長の後継者としての地位を確立した秀吉に臣従して豊臣政権下で中国地方8か国(周防国・長門国・安芸国石見国備後国備中国西部・出雲国伯耆国西部)112万石[注釈 1]を支配する大大名となり、さらに当主の毛利輝元、その叔父の小早川隆景らは六人の大老の1人にそれぞれ任命されて政権で重きに置かれた(隆景の死後に五大老と呼ばれる)。

しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて輝元は西軍の総大将となって東軍徳川家康と敵対。結果的にこれによって戦後に家康によって周防国・長門国29万8480石2斗3合[注釈 2]を除く所領を没収され、さらに輝元には隠居を命じた。

この際、輝元は、一時期子の無かった輝元の養子になっていた従弟の毛利秀元豊浦郡3万石を分与して長府藩という支藩を作っている一方、徳川家とも親しかった一族で従弟の吉川広家玖珂郡3万石(後に6万石)を分与したもののあくまで領内分与扱いとして冷遇した。

藩政の確立[編集]

慶長8年(1603年)、家康は輝元に対して築城の許可を与えた。輝元の隠居により家督はその息子の毛利秀就が継承していたが、秀就はまだ9歳の幼児だったため隠居の輝元が事実上の藩主として君臨していた。輝元は山口、あるいは防府に新たな居城を築城しようと家康に許可を求めたが家康は認めず、当時としては僻地だった萩に築城するように命じた。慶長9年(1604年)に輝元は萩城に入り、慶長13年(1608年)に萩城はようやく完成した。慶長15年(1610年)、輝元は2年がかりの厳格な検地を行なって総石高52万石という数を算定するに至る。この52万石とは柿、桑の樹木に至るまで石盛するという酷いもので、家康もさすがにこの数値は認めず7割に当たる36万9000石余を認める朱印を出している。これが幕末まで長州藩の表高となる。

輝元はさらに領内の防備を固めたり、家格の決定を行ったり、家臣団の再編成や行政組織の整備などに着手し、藩政の基礎をほぼ固めた。寛永元年(1624年)、輝元は再度検地を行なった。そして寛永2年(1625年)に死去した。

輝元の子で初代藩主の秀就は寛永11年(1634年)に弟の毛利就隆に4万5000石を分与して徳山藩を立藩させている。また、寛永20年(1643年)には春定の法という年貢収納法を制定した。

第2代藩主・毛利綱広万治3年(1660年)に江戸幕府を参考にして当家制法条々という藩法を公布した。これは藩祖とされていた毛利元就以来の法令を集大成したもので、万治制法とも言われた。こうして藩政が完全に確立した。

第5代藩主・毛利吉元享保4年(1719年)に藩校明倫館を創設した。

藩政改革へ[編集]

江戸時代も中期になると、どの藩でも藩財政が悪化して藩政も緩みだし、藩の再建が待ったなしになっていた。長州藩では凶作が相次ぎ、宝暦4年(1754年)の時点で銀3万貫の負債を抱えるようになっていた。この負債はわずか4年後に銀4万貫に膨れ上がっている。

このような中で第7代藩主に就任した毛利重就は、藩財政再建のため検地を実施した。これは貞享年間以来の久しぶりの検地であったが、この検地はかなり厳しいものだったらしく総石高71万石と算出している(しかも支藩領を除いた上での算出)。これは貞享の検地より4万石も増徴しており、重就はこの4万石を基金として撫育方という組織を創設した。これは藩内の産業の発展基金を管理する組織であり、新田開発や堤防事業などに投資して開墾地を次々と増加してゆくというものだった。この政策は成功し、長州藩はおよそ100町歩の土地が造成された。さらに重就は貿易事業にも力を入れて、藩財政の再建を成し遂げた。

重就の後の藩主たち、第8代藩主の毛利治親、第9代藩主の毛利斉房、第10代藩主の毛利斉熙、第11代藩主の毛利斉元らもそれぞれ藩政改革を続けたが、いずれも重就ほどの実力が無く、天保2年(1831年)には遂に長州藩史上最大と言われる大一揆が勃発した。この一揆は御内用反対一揆と称されるもので、長州藩各地では激しい打ちこわしが起こり藩は慌てて鎮静化を図ったが、鎮静後に一揆の首謀者319名を検挙したものの、そのうち有罪162名、死罪は10名という体たらくで、既に藩の指導力に限界が来ていたのであった。

幕末の雄藩として[編集]

天保8年(1837年)、第13代藩主となった毛利敬親は藩の負債銀9万貫、並びに6年前の大一揆の後遺症から藩政を再建することを急務としていた。敬親は天保9年(1838年)に村田清風を登用して藩政改革に当たらせる。清風は敬親の厚い信任を背景にして強権を発動。身分に関係ない有能な人材を登用したり、殖産興業を徹底したり、借金を強制的に棒引きにさせたり、さらに毛利氏の家臣に対して農村居住を奨励したりと次々と改革を進めていった。清風の改革は商人など既得権益者から激烈な反対を受けることになるが、それでも清風は改革を推し進めて長州藩は幕末において日本を代表する雄藩のひとつにまで成長することになった。しかし、この清風の強硬に過ぎた藩政改革は、清風の死後に藩内が改革の流れを汲む急進派(後の正義派)と改革に反対する流れを汲む保守派(後の俗論派)に分裂することになり、この両派の争いは幕末まで引きずることになってしまった。

幕末になると有名な吉田松陰桂小五郎などが登場している。吉田松陰は安政の大獄で処刑されているが、その教えは桂小五郎ら多くの後輩に受け継がれて長州藩は正義派を中心に討幕勢力の一翼を担うようになった。

文久3年(1863年)4月、長州藩は攘夷を実行することを理由にして、藩庁を周防国・長門国の中心地である山口(山口政事堂)に移した。このため、本来ならばこの時期に限っては長州藩ではなく防州藩(山口は周防国に属する)とも言うべきなのであるが、歴史上ではそのまま長州藩と言われることが続いている[注釈 3]

同年5月、長州藩は攘夷を実行し、結果的に下関戦争に至った。さらに禁門の変、それに続く第1次長州征伐によって長州藩は危機的状況に陥り、俗論派の勢力が増大して正義派の家老が切腹し、山口政事堂も一時取り壊しされた。このような中で実力者として台頭したのが奇兵隊を創設した高杉晋作であり、高杉は力士隊領袖の伊藤俊輔や鴻城隊領袖の井上聞多らと共に功山寺挙兵を行い、藩内における保守派(俗論派)を慶応元年(1865年)に打ち倒すと、正義派はそのまま討幕運動に邁進するようになる。討幕勢力が藩政の実権を握ったのを見た幕府は慶応2年(1866年)、第2次長州征伐を実行に移した。四境戦争とも称されるこの戦いは、薩摩藩西郷隆盛との密約を通じ、イギリスから最新兵器を入手した長州藩の大勝に終わり、長州1藩にすら勝利できなくなった幕府の衰退が表面化することになった。

その後、長州藩は薩長同盟のもとで討幕を推し進め、慶応4年(1868年)からの戊辰戦争錦の御旗を盾に多くの藩を寝返らせて勝利し、念願の討幕を成し遂げた。この時、吉川家領が岩国藩として正式に立藩した。明治維新後も長州藩は、大村益次郎を喪ったものの、木戸孝允(桂小五郎)ら有意の人材によって改革が進められ、版籍奉還廃藩置県を経て長州藩は消滅。現在と同じ防長二国の国域で明治4年(1871年)に山口県が早々に立県することになった。なお、県庁をどこに設置するかに関しては山口市以外にも、毛利氏の防長減封時、拠点を置く上で第一希望とした防府市や、県内だけでなく全国初の市制施行を果たした下関市なども候補に挙がっていた。時代によっては勢いのあった徳山への移転話も出ていた[注釈 4]

支藩・家臣団[編集]

  • 長府藩
    • 清末藩 - 孫藩(支藩である長府藩の支藩)
  • 徳山藩
  • 岩国領(岩国藩) - 毛利家は幕末まで支藩扱いせず(毛利家の陪臣扱い)、幕府からは外様大名格の扱いを受けた特殊な知行地。

歴代藩主一覧[編集]

歴代藩主の肖像は全て現存しており、毛利報公会が所蔵している。「萩市史・第一巻」に掲載されている。

代(毛利) 代(藩主) 氏名(よみ) 官位・官職 就封 在任期間 前藩主との続柄・備考
54 0 毛利輝元
もうり
てるもと
従三位権中納言 遺領相続 慶長5 - 元和9 毛利隆元 正室の子
55 1 毛利秀就
— ひでなり
従四位下長門守
右近衛権少将
家督相続 元和9 - 慶安4 毛利輝元 側室の子
56 2 毛利綱広
— つなひろ
従四位下・大膳大夫侍従 遺領相続 慶安4 - 天和2 毛利秀就 正室の子
57 3 毛利吉就
— よしなり
従四位下・長門守、侍従 家督相続 天和2 - 元禄7 毛利綱広 正室の子
58 4 毛利吉広
— よしひろ
従四位下・大膳大夫、侍従 遺領相続 元禄7 - 宝永4 養子、毛利綱広 側室の子・吉就弟
59 5 毛利吉元
— よしもと
従四位下・長門守、侍従 遺領相続 宝永4 - 享保16 養子、長府藩主 毛利綱元 長男
60 6 毛利宗広
— むねひろ
従四位下・大膳大夫、侍従 遺領相続 享保16 - 宝暦 毛利吉元 正室の子
61 7 毛利重就
— しげたか
従四位下・式部大輔、侍従 遺領相続 宝暦元 - 天明2 養子、長府藩主・毛利匡広の十男
62 8 毛利治親
— はるちか
従四位下・大膳大夫、侍従 家督相続 天明2 - 寛政3 毛利重就 正室の子
63 9 毛利斉房
— なりふさ
従四位下・大膳大夫、侍従 遺領相続 寛政3 - 文化6 毛利治親 正室の子
64 10 毛利斉熙
— なりひろ
従四位下・大膳大夫、侍従 遺領相続 文化6 - 文政7 毛利治親 正室の子・斉房弟
65 11 毛利斉元
— なりもと
従四位上・大膳大夫
左近衛権少将
家督相続 文政7 - 天保7 養子、毛利斉元は毛利親著の六男で、
毛利斉熙の婿養子
毛利親著は毛利重就の側室の子。毛利匡芳の同母弟。
66 12 毛利斉広
— なりとう
従四位下・大膳大夫   天保7年12月
- 12月29日
養子、毛利斉熙 正室の子・次男
67 13 毛利敬親
— たかちか
従四位下・大膳大夫 遺領相続 天保8年4月
- 明治2年1月
養子、毛利斉元 側室の子(長男)
毛利斉広の娘婿
明治2年1月 版籍奉還
68 14 毛利元徳
— もとのり
従三位参議   明治2年1月
- 明治4
養子、徳山藩主・毛利広鎮の十男

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈
  1. 天正19年に豊臣秀吉から発給された領知朱印状・領知目録 「安芸 周防 長門 石見 出雲 備後 隠岐 伯耆三郡 備中国之内、右国々検地、任帳面、百拾二万石之事」『毛利家文書』天正19年(1591年)旧暦3月13日付(『大日本古文書 家わけ文書第8 毛利家文書之三』所収)。内訳は、
    • 2万石 寺社領
    • 7千石 京進方(太閤蔵入地)
    • 6万6千石 羽柴小早川侍従(隆景)、内1万石無役
    • 11万石 羽柴吉川侍従(広家)、内1万石無役
    • 隠岐国 羽柴吉川侍従
    • 10万石 輝元国之台所入
    • 8万3千石 京都台所入
    • 73万4千石 軍役
    都合112万石 (『当代記』慶長元年「伏見普請之帳」安芸中納言の項)
  2. 慶長5年の検地による石高。慶長10年(1605年)の毛利家御前帳にも同様の石高が記載。
  3. しかし一部では、短期間周防山口に藩庁を置きそれが明治維新の時期と重なったため、山口に藩庁をおいた期間が僅かだったにもかかわらず、萩藩時代も含め”周防山口藩”という説も登場するなどの傍若無人な呼び方をする勢力も山口市を中心に存在する(県内唯一の国立大学の本部や県教育委員会の本部があるのは山口市であり、必然的にその職員は山口市民または、山口市を職場とする者が中心となる。現時点で山口市を職場としない者であっても、そのほとんどは山口市に勤務先を持っていた経験を持っており、いわば利害関係者。公平に物事を判断できるかは大いに疑問である。)。近年の観光案内などにおいても幕末の舞台を萩市ではなく、山口市と紹介する事例も増えてきている。この場合萩市の”は”の字も出てこない、まるで萩藩時代を抹殺したいという純粋の悪意(または未必の悪意)と感じられるものも出てきており、非常に憂慮される事態となっている。
  4. しかし短期間藩庁をおいた山口市に県庁が置かれ、それが巨大な既得権益となり100年以上経った現在でもなお続いており、山口市以外に移転する等という話もほぼ完全に出ていないのが現実である。