乃木希典

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乃木 希典(のぎ まれすけ、嘉永2年11月11日1849年12月25日) - 1912年大正元年)9月13日(62歳没))は長府藩士、大日本帝国陸軍軍人教育者である。最終階級は陸軍大将。生前には昭和天皇を教えたこともあったことが、昭和天皇の侍従長であった徳川義寛の著書である『侍従長の遺言―昭和天皇との50年』(1997年2月、朝日新聞社)に記載されている。幼き昭和天皇は乃木を大変尊敬していたという。贈正二位勲一等功一級伯爵

生涯[編集]

幼少期[編集]

嘉永2年(1849年)11月11日、長州藩支藩である長府藩藩士乃木希次の3男として長府藩江戸屋敷で生まれる[1]。母は寿子(ひさこ)という[1]。寿子は希次の後妻で、希次が43歳の時に20歳で入籍したため、親子ほどの差がある夫婦であり、前妻の長男である乃木源太郎は希典が生まれた時に既に成人していたため、寿子は源太郎の妻と間違われる事も少なくなかったという[1]

その源太郎は希典が生まれる直前に若死。次男の次郎も夭折したため、3男である希典が事実上の長男となる[1]。他に弟が2人、妹が2人いた[1]。父の希次は2人の息子を相次いで失ったため、逆運を念じて希典に無人(なきと)という幼名を与えた[1]

その希典の幼少時は虚弱児だったため、よく泣いたという[1]。そのため泣人とからかわれるほどであった[1]。しかし父の希次は将来家督を継承する息子として厳しくしつけ、希典が寒いとこぼした時には井戸端に引っ張って行き、水を浴びせたという逸話すらある[1]

希次は藩士で馬廻の役職にあり、禄高も150石とそれなりに恵まれていた地位にあった[1]。ところが希次は剛直な硬骨漢で藩内の士風が頽廃している事を憂えて藩政改革を求める建白書だったが、それが痛烈な重臣批判を連ねていたため、重臣の怒りを買って長府に帰国して閉門100日を命じられた上、俸禄も150石から50石に減封されるという処罰まで加えられた[1][2]。しかもこれまで江戸で過ごしていた乃木家には長府に屋敷が無かったため、借家を借りて過ごすしかなく、しかも禄高を減らされた上で一家7人全員のやりくりをしなければならなくなったので一気に極貧生活に突入したという[2]。母がやチマキを作って売ったりして生計の足しにしたり、安い白木綿を買ってきて自宅で染め上げて子供たちの着物を作ったり、になっても綿入れも足袋も用意できないなどの極貧生活が伝えられている[2]

幕末から明治へ[編集]

15歳の時に元服し、藩士の年少子弟を教育する集童場に入る。希典は学業が非常に優秀だったが、虚弱体質は相変わらずで目立たないおとなしい少年だったという。しかしある事を境に虚弱体質を馬鹿にしていた学友らが希典を見直す出来事があった。肝試しをした際、集童場から3キロ余りも離れた処刑場に行って自分の名札を置いてくるルールで遊んでいた際、処刑場の雰囲気を恐れて学友らが尻込みしたり引き返したりする中で、希典は1人でさっさと出発してあっさりと名札を処刑場に置いて悠々と帰ってきた。学友らは虚弱体質の希典が怖がって逃げ帰って来るところを笑ってやろうと待ち構えていたのだが、これを機に希典を大いに見直したという。これは父の希次が希典の虚弱体質を治すために深夜に墓所や古寺などに行かせて精神的に鍛錬させていたおかげだったという[2][3]

やがて学業優秀だった希典は集童場の授業に物足りなさを感じて本格的な学問を求め、新たな師匠にこの時は既に死去していた吉田松陰の義理の叔父松下村塾の創始者であった玉木文之進を選んで入門しようとする。父の反対を受けるが希典は押し切って家出までして入門し、ここで玉木に厳しく心身を鍛え上げられた。学問だけでなく畑仕事などの農事にも従事させられ、それまで虚弱体質だった希典の身体は別人のように筋肉質の強健な体躯になったという。また、人格形成においてもこの時代に大きな影響を受けたという[3]

慶応2年(1866年)に江戸幕府第2次長州征伐を開始すると、希典は玉木に督励されて奇兵隊の一員として参加し、九州小倉口で戦う。この時に希典の直属の上司(隊長)だったのが山縣有朋(狂介)であり、この時の希典の奮戦ぶりが山縣の目に止まり、大いに評価された。慶応4年(1868年)からの戊辰戦争は怪我のため参加していないが、明治4年(1871年)には御親兵兵営でフランス式調練を受け、陸軍少佐に任命される。これは陸軍が長州閥で占められた事、戊辰戦争などで士官不足が深刻化していたため、27歳の若さながら山縣の抜擢を受けたものとされている[3][4]

西南戦争[編集]

晩年と最期[編集]

日露戦争後、乃木は旅順を陥落させた名将として国民から賞賛された[5]。だが、本人は余りこの事を誇りには思っていなかたようである。ある時、長野師範学校に招かれた乃木は校長から講堂に全校生徒を招いてその勲功を称えた上で、乃木に講演するように求めた。乃木は固辞したが、校長が熱心に求めるため遂に根負けして応じたが、その際に演壇に立って述べた言葉が「諸君、私は諸君の兄弟を多く死なせた乃木であります」と言って、頭を垂れて絶句したという。そして無言のまま落涙して嗚咽し、その乃木の姿を見た生徒や教職員で涙しない者はいなかったという(長野県出身の兵士は第1師団に編入されて旅順で多くの死傷者を出していた)[5][6]

明治45年(1912年)7月30日に明治天皇が崩御し、皇太子の嘉仁親王が践祚して大正に改元される[6]

大正元年(1912年)9月10日、新しく大正天皇の下で皇太子となった後の昭和天皇山鹿素行の『中朝事実』などの書物を献上し、「他日皇位に就かせられる」身であるから勉学に努められるよう激励したという[6]9月12日、乃木はカステラを盆に山のように積んで厩に向かい、愛馬の寿号(じゅごう)にあげようとした。だが、ちょうど秣を食べている最中だったため、乃木はそのまま母屋に帰った[6]。その後、厩に行くと寿号は前足を掻いてカステラを欲しがったので、乃木は愛馬の鼻面を撫でながらカステラをやったという[6]

9月13日に明治天皇の大葬が青山で執り行われ、明治天皇の霊柩車が皇居を出る際に号砲が鳴り響いたが、これを合図に乃木の屋敷では希典が妻の静子夫人とともに壮烈な自決を遂げた[6]。享年64。

死後、東京都赤坂区に現存する乃木神社に祀られた(旧社格府社、現別表神社)。日本国内に複数の乃木神社が存在する。

また乃木邸の近くにあった幽霊坂は名を乃木坂に改めた。乃木が出生した長府藩江戸屋敷跡には六本木ヒルズが建ち、建設過程でけやき坂が開削された。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k 『明治人物伝』 - 日本が世界に名乗りを上げる時(立石優著。明治書院。2010年)P98
  2. a b c d 『明治人物伝』 - 日本が世界に名乗りを上げる時(立石優著。明治書院。2010年)P99
  3. a b c 『明治人物伝』 - 日本が世界に名乗りを上げる時(立石優著。明治書院。2010年)P100
  4. 『明治人物伝』 - 日本が世界に名乗りを上げる時(立石優著。明治書院。2010年)P101
  5. a b 『明治人物伝』 - 日本が世界に名乗りを上げる時(立石優著。明治書院。2010年)P123
  6. a b c d e f 『明治人物伝』 - 日本が世界に名乗りを上げる時(立石優著。明治書院。2010年)P124

参考文献[編集]

外部リンク[編集]