江戸藩邸

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江戸藩邸(えどはんてい)は、江戸時代江戸に置かれた藩邸(屋敷)である。

概要[編集]

江戸幕府は江戸時代初期に、諸大名に対しそれぞれ江戸地内に土地を与えた。これは幕府が任意で与えたもので、特定の基準は無かったという。土地を与えられた大名らは、競うように大名屋敷の建築を行うことでその勢威を誇示した。

その後、幕藩体制が固まり、参勤交代も制度化して大名や旗本らの江戸集住が本格化すると、江戸の計画的な都市計画が進められ、再配置も同時に行なわれた。明暦3年(1657年)に明暦の大火が起きると、これを契機に幕府は江戸の都市計画を大幅に改めた。具体的には、大名屋敷を用途に応じて上屋敷・中屋敷・下屋敷に分けることとし、上屋敷と中屋敷は江戸城への登城に便利な外堀内縁に集中させて配置し、下屋敷は郊外の地域に与えた。

上屋敷は「大名とその妻子が江戸で日常的に居住する屋敷」であり、留守居も兼ね江戸家老が常駐した。中屋敷は「上屋敷が火事など災害などで住めなくなった場合の控え」であった。ただし中屋敷は江戸時代中期頃から「大名家の嫡子が居住する屋敷」となっていった。下屋敷は「大名家の別荘としての役割を持つ屋敷」であった。

なお、藩邸の規模は元文3年(1738年)の規定によると、1万石から2万石の小大名は2500坪、10万石から15万石の中堅大名は7000坪である。それ以上の大名家、特に大名の中でも最高の石高を誇る加賀藩前田氏では、本郷に上屋敷、染井に中屋敷、板橋と深川に下屋敷を持ち、合わせて32万8000坪を誇る壮大さであったという。

江戸藩邸の場所[編集]

その他[編集]

  • 明治維新後、大名屋敷跡は、政府官庁や実業家邸宅等に転用された。
  • 令和の世の現在も千代田区平河町を中心に、江戸の藩邸のように道府県が東京事務所を構える。

関連項目[編集]