関ヶ原の戦い

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関ヶ原の戦い(関ヶ原合戦・山中合戦)
戦争: 関ヶ原の戦い
年月日: 1600年9月15日
場所: 美濃国関ヶ原
結果: 東軍の勝利
交戦勢力
西軍 東軍
指揮官
()内は関ヶ原に布陣しなかった・行かなかった武将。
(毛利輝元(総大将))
石田三成(関ヶ原大将)
大谷吉継
小早川秀秋
島左近
毛利秀元
吉川広家
安国寺恵瓊
長束正家
宇喜多秀家
長宗我部盛親
脇坂安治
小西行長
島津義弘
(上杉景勝)
(直江兼続)
(真田昌幸)
など
徳川家康
福島正則
井伊直政
本多忠勝
加藤清正
黒田長政
細川忠興
織田有楽
加藤嘉明
藤堂高虎
京極高知
山内一豊
(京極高次)
(鳥居忠吉)
(伊達政宗)
(徳川秀忠)
(本多正信)
など
戦力
100,000? 100,000?
損害
??? ???

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代慶長5年9月15日西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦関ヶ原合戦とも呼ばれる。

なお、本戦以外の過程についてはwp:ja:関ヶ原の戦いを参照。本項では、同記事より削除された本戦における動向について解説する。

本戦

布陣

関ヶ原布陣図(慶長5年9月15日午前8時前)拡大

一般には、次のような展開であったとされることが極めて多い。「西軍は開戦時には三成の笹尾山、宇喜多秀家の天満山、小早川秀秋の松尾山、毛利秀元の南宮山の軍勢で東軍を半包囲して優勢だったが、東軍は事前に秀秋・吉川広家ら多くを内応させており、秀秋が参戦した昼過ぎには西軍を逆包囲する形となって、数的にも優勢になり西軍を圧倒した。」

しかし、上記の展開について出展元史料の信頼性の観点等から否定する研究者も存在する。

詳細は「関ヶ原本戦の配置」を参照


主な両軍の大名(石高の隣、○印は関ヶ原に布陣した大名、●は寝返った大名、▲は布陣のみに終った大名)

  • 下表の兵力は、関ヶ原本戦に参陣した武将の動員兵力である。出典は『日本戦史・関原役』に拠る。
武将 石高(万石) 兵力 武将 石高(万石) 兵力
西軍 毛利輝元 112.0 東軍 徳川家康 256.0 30,000
毛利秀元 (20.0) 15,000 松平忠吉 (10.0) 3,000
吉川広家 (14.2) 3,000 井伊直政 (12.0) 3,600
大友義統 本多忠勝 (10.0) 500
上杉景勝 120.0 前田利長 84.0
島津義弘 73.0 1,588 伊達政宗 58.0
宇喜多秀家 57.0 17,220 堀秀治 45.0
佐竹義宣 54.0 最上義光 24.0
小早川秀秋 37.0 15,000 福島正則 24.0 6,000
長宗我部盛親 22.0 6,600 加藤清正 20.0
小西行長 20.0 4,000 筒井定次 20.0 2,800
増田長盛 20.0 細川忠興 18.0 5,000
石田三成 19.4 6,900 黒田長政 18.0 5,400
織田秀信 13.5 蜂須賀至鎮 17.7 不明
小川祐忠 7.0 2,100 浅野幸長 16.0 6,500
安国寺恵瓊 6.0 1,800 池田輝政 15.2 4,500
毛利勝信 6.0 不明 生駒一正 15.0 1,800
長束正家 5.0 1,500 中村一氏 12.0
大谷吉継 5.0 600 藤堂高虎 11.0 2,500
大谷吉治 2,500 堀尾吉晴 10.0
木下頼継 2.5 1,000 加藤嘉明 10.0 3,000
田丸直昌 4.0 不明 田中吉政 10.0 3,000
真田昌幸 3.8 京極高知 10.0 3,000
脇坂安治 3.3 990 京極高次 6.0
赤座直保 2.0 600 寺沢広高 8.0 2,400
糟屋武則 1.2 360 山内一豊 5.9 2,000
朽木元綱 1.0 600 金森長近 3.9 1,100
戸田勝成 1.0 500 有馬豊氏 3.0 900
河尻秀長 1.0 不明 滝川一時 1.4 不明
石川貞清 不明 織田長益 0.2 450
織田信高[注釈 1] 2,500 古田重勝[注釈 2] 1,200
毛利元康 (-) 徳川秀忠 (-)
小早川秀包 13.0 榊原康政 (10.0)
立花宗茂 13.2 大久保忠隣 (6.5)
筑紫広門 1.8 酒井家次 (3.7)


開戦

関ヶ原古戦場

合戦は先陣が福島正則と決まっていたにもかかわらず、井伊直政の抜け駆けによって開始されたとされているが、笠谷和比古によると実際は抜け駆け行為は霧の中での偶発的な遭遇戦という形をとっており、戦闘開始はそれに続く福島正則の宇喜多隊に向けた銃撃戦に求めるべきとされている。 家康から諸将に7月7日付で出されている軍法の第四条で抜け駆けを厳禁している。そもそも合戦開始時においても、合戦後においても福島から井伊に対して何らの抗議めいた態度は示されておらず、井伊の開戦時における行為は、かなり抑制されたものであって、福島の名誉を傷つけないように配慮されたものと推測されている[1]

開戦直後に激突した主な武将は以下のとおり。

西軍の宇喜多隊と東軍・福島隊の争いは、「宇喜多家の旗と福島家の旗が双方とも二、三度も退却した」(『関ヶ原軍記大成』)という戦闘となった。

石田隊には黒田隊、細川隊が攻めかかる。石田隊は木柵、空堀からなる野戦陣地で敵勢を防ぎつつ、鉄砲、大筒などを用いて、必死に東軍部隊を抑えていた。黒田隊の狙撃兵が石田隊の先陣・島を負傷させ、石田隊の先陣が退却すると、攻撃を加える黒田・細川隊に石田隊は大砲の発射で応戦した。やや遅れて大谷隊には藤堂隊、京極隊が襲い掛かる。兵力的には東軍側が圧倒していたが、吉継は三倍近い藤堂隊、京極隊を何度も押し返した。小西隊には古田隊、織田隊がそれぞれ攻めかかった。

家康本隊3万は戦闘には参加していなかったが、開戦間もなく桃配山を降りて最前線近く(現在の床几場)まで陣を移している[注釈 4]

激戦をこの地で体験した太田牛一は『慶長記』において次のように記している。

笹尾山陣地跡
敵味方押し合い、鉄砲放ち矢さけびの声、天を轟かし、地を動かし、黒煙り立ち、日中も暗夜となり、敵も味方も入り合い、しころ(錣)を傾け、干戈を抜き持ち、おつつまくりつ攻め戦う―

三成は、開戦から2時間を過ぎたころ、まだ参戦していない武将に戦いに加わるように促す狼煙を打ち上げた。さらに島津隊に応援要請の使いを出す。西軍は総兵力のうち、戦闘を行っているのは3万3,000ほどながら、地形的に有利なため戦局をやや優位に運んでいた。しかし、西軍は宇喜多、石田、小西、大谷とその傘下の部隊がそれぞれの持ち場を守って各個に戦っているだけで部隊間の連携が取れているとは言えなかった。

それに対し、部隊数、実際兵力数で上回る東軍は西軍一部隊に対し、複数の軍勢が連携して、同時多方面から包囲攻撃を仕掛け、または入れ替わり立ち代り波状攻撃を仕掛けるなどして間断無く攻め立てた。さらに遊撃部隊として最前線後方に控えていた寺沢勢、金森勢が増援として加わったため、時間が経つにつれて次第に戦局は東軍優位に傾き始め、特に石田隊は攻撃を受けて柵の中に退却していた。とは言え、地の利がある西軍主力部隊の抵抗も頑強であり、戦況を決めるには至らなかった。

西軍の抵抗から、ここで松尾山の小早川秀秋隊1万5,000と南宮山の毛利秀元隊1万5,000、その背後にいる栗原山の長宗我部盛親隊6,600ら、計4万7,000が東軍の側面と背後を攻撃すれば、西軍の勝利へと形成は逆転するものと思われた。しかし、島津は「使者が下馬しなかったため無礼だ」という理由で応援要請を拒否、また毛利秀元・長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊らは、徳川家と内応済みの吉川広家に道を阻まれて参戦できずにいた(宰相殿の空弁当)。結局、最後まで南宮山の毛利軍ら3万3,000もの大軍は参戦せず、直後に起きる小早川秀秋の裏切りと並ぶ西軍の敗因となった。

小早川秀秋の裏切り

家康は内応を約していた小早川秀秋隊が、松尾山の山奥に布陣したまま動かないことに業を煮やして[注釈 5]、正午過ぎには松尾山へ向かって威嚇射撃を加えるように命じる。この家康の督促によって松尾山を降りた小早川隊1万5,000の大軍は、ようやく東軍に寝返ったといわれているが、藤本正行は当時の信用できる史料で威嚇射撃は裏付けることはできないとして、家康は小早川軍に鉄砲を撃ち込ませてはいないとする[2]三池純正は地形上の疑問点として、轟音が響き渡り、黒煙が視界を塞いでいる中で、家康が打ちかけた鉄砲だけを、松尾山で峻別できたのか、家康が打った鉄砲だけを峻別するのは難しかったとし、家康が打った鉄砲は小早川の寝返りを促したというより、小早川に西軍を攻めよとの合図のようにも受け取れるとしている[3]。 なお、小早川隊の武将で先鋒を務めた松野重元は「盾裏の反逆は武士としてあるまじき事」として秀秋の命令を拒否・離反した。

小早川隊は山を駆け降りると、東軍の藤堂・京極隊と戦闘を繰り広げていた大谷隊の右翼を攻撃する。大谷吉継は、かねてから風聞のあった秀秋の裏切りを予測していたため、温存していた600の直属兵でこれを迎撃し、小早川隊を松尾山の麓まで押し返した。

ところが、それまで傍観していた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら計4,200の西軍諸隊も[注釈 6]、小早川隊に呼応して東軍に寝返り、大谷隊の側面を突いた。予測し得なかった四隊の裏切りで戦局は一変、戸田勝成・平塚為広は戦死し、吉継も自刃した。

宣教師フェルナン・ゲレイロはその報告の中で奉行(石田三成)側の軍勢中には裏切り行為によってざわめきが起きて陣列の混乱が続いたと述べている[4]

大谷隊を壊滅させた小早川、脇坂ら寝返り部隊や、藤堂、京極などの東軍部隊は、宇喜多隊に狙いをつけ、関ヶ原中央へ向け進軍を始めた。ここに関ヶ原の戦いの勝敗は、ほぼ決定した。

西軍敗走

小早川隊の寝返りと大谷隊の壊滅により、旗本中心の家康本隊も動き出し、東軍は西軍に攻撃をかける。宇喜多隊は小早川隊などからの攻撃を相手に奮戦したが、やがて3倍以上の東軍勢の前に壊滅。宇喜多秀家は敗走した。宇喜多隊の総崩れに巻き込まれた小西隊は壊滅し、小西行長も敗走。石田隊も東軍の攻撃を相手に戦闘を続けたが、島・蒲生・舞などの重臣は討死し、壊滅。三成も伊吹山方面へ逃走した。

こうしたなか、島津隊は東軍に包囲される。ここにおいて、島津勢の敵中突破退却戦、いわゆる「島津の退き口(捨て奸)」が開始される。島津義弘隊1,500(『日本戦史 関原役』[注釈 7])が鉄砲を放ち、正面に展開していた福島隊の中央に突撃を開始する。西軍諸隊が壊滅・逃亡する中での反撃に虚を衝かれた福島隊は混乱し、その間に島津隊は強行突破に成功。更に寝返った小早川隊をも突破し、家康旗本の松平・井伊・本多の3隊に迎撃されるがこれも突破する。この時点で島津隊と家康本陣までの間に遮るものは無くなってしまう。島津隊を見た家康は、迎え撃つべく床几から立ち、馬に跨って刀を抜いたという。しかし島津隊は直前で転進、家康本陣をかすめるように通り抜け、正面の伊勢街道を目指して撤退を開始した。松平・井伊・本多の徳川諸隊は島津隊を追撃するが、島津隊は捨て奸戦法を用いて戦線離脱を試みる。島津隊将兵の抵抗に、追撃した井伊直政が狙撃されて負傷し後退[注釈 8]。この際島津方では島津豊久阿多盛淳肝付兼護らが戦死した。次に追撃した松平忠吉は申の中刻に狙撃されて後退(『関ヶ原合戦進退秘訣』)、負傷した。本多忠勝は乗っていた馬が撃たれ落馬した。徳川諸隊は島津隊の抵抗の凄まじさに加え、指揮官が相次いで撃たれたことと、すでに本戦の勝敗が決していたこと、また家康から追撃中止の命が出たことなどから深追いを避けた。一方の島津隊は島津豊久・阿多盛淳・肝付兼護ら多数の犠牲者を出し、兵も80前後に激減しながらも、殿軍後醍院宗重木脇祐秀川上忠兄らが奮戦し義弘は撤退に成功した。盛淳は、義弘がかつて秀吉から拝領した陣羽織を身につけ、義弘の身代わりとなって切腹したと言われている。島津家は戦功があった5人に小返しの五本鑓の顕彰を与えている。

西軍が壊滅する様を目の当たりにした南宮山の毛利勢は戦わずして撤退を開始。浅野幸長・池田輝政らの追撃を受けるが、長宗我部・長束・安国寺隊の援護を受けて無事に戦線を離脱し、伊勢街道から大坂方面へ撤退した。殿軍に当たった長宗我部・長束・安国寺らの軍勢は少なからざる損害を受けるが退却に成功。安国寺勢は毛利勢・吉川勢の後を追って大坂方面へ、長宗我部勢と長束勢はそれぞれの領国である土佐と水口を目指して逃亡した。

戦後処分

家康は戦後の処分で、西軍の宇喜多秀家八丈島へ遠島に処し、旧領を勝敗を決めた小早川秀秋に与えて加増した。秀吉恩顧で東軍参加の福島正則、浅野幸長黒田長政山内一豊中村一忠らは江戸から遠方の西日本に転封させて加増。西軍の実質大将だった毛利輝元、最初の標的の上杉景勝らを減封。豊臣秀頼も減封され一地方の大名に没落した。さらに長宗我部盛親真田昌幸などの有力大名や、秀秋に次いで西軍を裏切った小川祐忠赤座直保を改易。盛親や昌幸の次男の真田信繁は、その後大坂の陣明石全登毛利勝永と共に徳川家に再度反抗した。
西軍参加の立花宗茂も改易されたが、後に徳川秀忠が大名に召抱え、大坂の陣では敵の動きを予想する参謀として功を挙げ、西軍参加大名で唯一旧領復帰を果たした。

陣地図

普通字は西軍。太文字内は1万以上の西軍大軍勢。斜線内は東軍。太斜線は1万以上の東軍大軍勢。大きな文字は総大将(西軍は総大将が参戦しなかったため西軍の大将となる。)


小早川秀秋 脇坂安治 小川祐忠 赤座直保

           宇喜多秀家   小西行長 島津義弘      石田三成


    平塚為広 大谷吉継 戸田重政

                           福島正則 田中吉政 筒井定次 加藤嘉明 細川忠興 黒田長政

                         京極高知


寺沢広高 藤堂高虎


                                    松平忠吉 井伊直政

                                 生駒一正 金森長近 織田長益 古田重勝

本多忠勝


徳川家康

        

 毛利秀元 吉川広家 安国寺恵瓊


長宗我部盛親

長束正家

その他

よく、豊臣と徳川の戦いだと誤解されるが、実際は東軍・西軍とも豊臣軍を自称しており、東軍には福島正成など豊臣縁故の大名が、反石田の武断派を中心に多く参加していた。なので実態は、「毛利・上杉・豊臣奉行衆」と「徳川・豊臣武断派」の戦いだったというのが正しい。

一次史料、あるいはそれに近い編纂史料から見た関ヶ原の戦い

上記については、江戸時代中期から後期にかけて成立した二次史料、すなわち軍記物などで成立した関ヶ原の戦いである。主に『関原軍記大成』や『石田軍記』などが現在では「関ヶ原合戦」として広く知られているが、一次史料を見る限りはとてもそう思えないので、見直しをしたい。

本戦前の状況

西軍にかなり不利な状況

慶長5年(1600年)8月下旬に美濃赤坂・垂井まで東軍に進出されて、西軍は著しく不利に陥っていた。本戦3日前の9月12日付である増田長盛石田三成書状には以下のようにある。

*「度々申し入れる如く、金銀米銭遣わさるべき儀も、この節に候。拙子なども、似合に早手の内有たけ、此中出し申し候。人をも求め候故、手前の逼迫、御推量有るべく候」(度々私(三成)が申し入れたように、金銀や兵糧を使うのは今この時です。拙者は既に自分が出せる金を出し、人を求めて既に金も兵糧もありません。私の逼迫した現在を何卒お察しください

このように、三成は既に軍資金がほとんど枯渇して窮迫していたことがわかる。仮に、関ヶ原本戦で勝利できても、これではその後は軍事活動ができなかったのではないだろうか。

この書状はそれ以外にも長々と三成の愚痴が続いている。少々長いが重要な内容なので引用しておく。

*「本日、大垣城で軍議を開きます。一昨日、長束正家安国寺恵瓊の陣所を訪ねて所存を確認しましたが、事はうまく運ばないと思います。というのも、大事を取って敵を壊滅させる工夫をせず、身の安泰ばかりを考えているからです。陣所は垂井の上手の高い山で、人馬の水も無く、合戦が始まっても軍勢の上り下がりができないほどです。ここを陣所にするとは、味方は不審に思っています。敵もそう思っているでしょう。正家と恵瓊は合戦を決断しようとしません。伊勢から到着した毛利秀元、吉川広家、北陸から来た脇坂安治小川祐忠らも合戦を好まないようです。東軍に内通の噂がある者もいます。私(三成)は正家と恵瓊に刈田をしようと提案しましたが、正家と恵瓊は決断しようとすらしません

西軍の戦意の低さと焦りがよくわかる文章である。長束と恵瓊は西軍の首謀者たちであり、それらが戦意がそれほど高くないのである。だから、それ以外の西軍の武将の戦意が低いのは当然といえる。さらに、三成が長束らに刈田を進言したとある。しかし、刈田とは攻勢に出た軍勢が敵領で敵を挑発することを目的とするために行なうことで、三成は刈田を大垣かその周辺で行なおうとしていた可能性があり、これに長束や恵瓊が賛成しないのは当然といえる。大垣領は西軍の伊藤盛正の所領であり、味方の所領である。1番近い敵領にまで行くとしても垂井にまで東軍が進出しており、三成が一体何の意図があって刈田をしようとしたのか理解に苦しむ内容である。

*「赤坂の敵は行動を起こさず、何かを待っている模様です。当方では、皆が不思議がっています

三成は家康が江戸から西上していることを全く掴んでいなかったことがわかる。つまり、敵の総大将の動きを全く偵知、あるいは諜報活動を怠っていたことになる。

*「味方の心中も計り難く、分別(決断)されるときでしょう。敵味方の下々の者は、貴殿(増田長盛)と家康が内密に「人質を成敗せず」と取り決めたと噂しています。裏切りを防ぐために、敵(東軍)の妻子を数人成敗すれば、味方の心中も変わるだろうと当方では話しています。間諜の報告では、佐和山口から出動した大軍を擁する者(名前は書状では記されていないが小早川秀秋のことか)が敵に内通した、という噂があります。敵は勇気づいたようです。とにかく、人質を成敗しなければいけません

三成は挙兵時に捕らえた東軍の人質を寛大に対応していることが、逆に西軍の士気の緩みに繋がっていると指摘している。また、増田が家康と内通して人質を故意に厚遇しているのではないかと疑い、裏切り防止のために何人か人質を殺せ、そうすれば西軍の士気は変わるだろうと言っている。また、諜報により小早川秀秋の裏切りを察知していたようであり、緊急事態なので人質を殺せ、と言っている。

しかし別項では、以下のようにもある。

*「成敗しない人質は、毛利領国の安芸宮島に移送するように

恐らく、人質を全て殺すのは無理だから、殺さない人質は毛利領に移せということだと思われる。

*「連絡用の城(松尾山城のことか)には、毛利輝元の軍勢を入れておくべきでしょう。伊勢、美濃と、近江と美濃の境目にある松尾の城や番所にも中国衆を入れる必要があります

小早川秀秋の裏切りを警戒してか、毛利輝元に軍勢を送ってほしいと要請している。仮に小早川秀秋を入れるなら「筑前衆」か「筑紫衆」となるはずで、中国衆とは毛利軍のことを指すと考えられる。

本戦

合戦の名称に関して

9月15日の関ヶ原本戦について、1次史料及びそれに近い史料から見ていきたい。そもそも名称から、「関ヶ原」は正しいのかという疑問がある。

*「今日15日の午の刻、濃州の山中において一戦に及んだ」(慶長5年9月15日付伊達政宗宛徳川家康書状)。
*「去る15日、美濃の内の山中という所にて御合戦を遂げた」(慶長5年9月19日付松沢喜右衛門尉他2名宛保科正光書状)。
*「山中之合戦」「山中」「山中合戦」「人数を二手に分けて、一手は山中へ押し入り」(慶長5年9月17日付吉川広家書状)。

山中とは、現在の岐阜県不破郡関ヶ原町山中のことである。つまり、1次史料からは関ヶ原合戦ではなく、「山中合戦」と呼ばれていたことになる。

では、「関ヶ原合戦」という言い方は誤りなのか、と言われるとそうでもない。慶長5年9月17日付松平家乗石川康通彦坂元正連署書状には「15日巳の刻、関か原へ出陣して一戦に及んだ」とあるので、間違いというわけではない。現在のところ、関ヶ原表記が最も早く使用されたのはこの書状だが、つまり合戦当時や直後は「山中合戦」と言われることが主流だったのである。

関ヶ原本戦の経緯

では次に、本戦の状況を語りたい。書状は現代文にしてそのままである。

*「(9月)15日、(家康が)濃州赤坂に至り着馬したところ、夜半に敵が関ヶ原へ大垣より回り、先陣において合戦を企てた。この日は雨が降り霧が深く、行く先ははっきりわからなかった。伊勢筋へ回っていた西国衆2万5000はこうづ(海津市南濃町上野河戸)、駒野(海津市南濃町駒野)に居陣した。関ヶ原に石田三成、宇喜多秀家、大谷吉継、島津義弘、小西行長が今まさに陣を敷こうとしたところへ、小早川秀秋が家康の味方に属したので、敵は敗北し、数百を討ち取った。この時、脇坂安治小川祐滋らは俄かに家康に属した」(『当代記』)[注釈 9]。
*「(9月15日の家康の出陣の後)、関ヶ原表にてことごとく追い討ち(追撃)を命じた」(慶長5年9月19日付大関資増浅野長政書状)。
*「去る14日、(家康は)赤坂に着き、15日巳の刻、(家康は)関ヶ原へ出陣して一戦に及んだ。石田三成、島津義弘、宇喜多秀家、小西行長の4名は14日夜5ツ時分に大垣(城)の外曲輪を焼き払い、関ヶ原へ一緒に押し寄せた。この地の衆(尾張衆)、井伊直政、福島正則が先手となり、その他(の諸将が)全て次々と続き、敵が切所(要害のこと)を守っているところへ出陣して、戦いを交えた時、小早川秀秋、脇坂安治、小川祐忠、祐滋父子の4人が家康に御味方して、裏切りをした。このため、敵は敗軍になり、追い討ちにより際限なく(西軍の兵を)討ち取った。(西軍の武将で討ち取った)大将分は大谷吉継、島津忠恒島左近島津豊久戸田勝成平塚為広、この他を討ち取った」(慶長5年9月17日付松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署書状)[注釈 10]。
*「彼(家康のこと)は敵(三成のこと)と戦闘を開始したが、始まったと思う間もなく、これまで奉行たちの味方と考えられていた何人かが内府様(家康)の軍勢のほうに移っていった。彼らの中には、太閤様(秀吉)の奥方の甥であり、太閤様から筑前の国をもらっていた中納言(小早川秀秋)がいた。奉行たちの軍勢の中には、間もなく裏切り行為のため叫喚が起こり、陣列の混乱が叫喚に続いた。こうして短時間のうちに奉行たちの軍勢は打倒され、内府様は勝利を収めた」(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)。
*「美濃堺の柏原において、家康の先勢である福田正則・細川忠興・加藤嘉明が合戦を行なったとのことで、大「」の軍勢が敗北し、大谷吉継は討ち死にした。これは小早川秀秋の反逆によるもので、巳の刻であった」(『舜旧記』慶長5年9月15日条)[注釈 11]

通説では、関ヶ原本戦は午前8時頃開戦、正午頃に小早川秀秋が裏切り、それに連鎖して脇坂、小川、朽木元網赤座直保らが裏切り、勝負が東軍勝利で決した、ということになっている。しかし、一次史料を見る限りは「小早川秀秋は開戦と同時に裏切った」「それに連鎖して脇坂、小川らも裏切った」ということになる。なお、朽木と赤座については関ヶ原に出陣していたのかどうかすら疑わしい。慶長5年8月5日頃に西軍の諸将配置を記した史料(『真田家文書』上巻、56号文書)には、この2人の名前が全く見当たらず、出陣していなかったのではないかと思われる。つまり、「関ヶ原の戦いは午前10時頃に始まったが、開戦と同時に小早川が裏切り、それに続く形で脇坂や小川父子も裏切った。このため西軍は大敗し、東軍は西軍の敗残兵をことごとく討ち取り大勝利を収めた」ということである。

なお、島左近は関ヶ原で生き延びたという伝承があるが、石川・彦坂連署書状で討ち取った大将の1人として名が挙げられていることから、恐らく討死したものと思われる。

ただ、本戦に関しての書状や記録には、以下のようなものもある。

*「宇喜多、島津、小西、石田らが山中へ攻め込んだため、秀秋の逆意は明らかになりました。そのため、大柿(大垣)にいた者たちもそこに留まっていることができなくなりました。吉継は心細くなり、山中へ向かって撤退していきました。きっとその後、佐和山まで撤退するつもりだったのだと思います」(毛利輝元宛吉川広家書状。『吉川家文書』913号)。
* 「このとき、宇喜多、小西、石田らが、大柿を出て関ヶ原へ向かったとのことです。その理由は、小早川秀秋が裏切ったという情報が入ったので、それを攻撃するためでした」(家康の侍医・板坂卜斎の『慶長年中卜斎記』)。

こちらは小早川秀秋があらかじめ裏切ったので、それを知った三成らが軍勢を率いて秀秋がいる松尾山に向かった、と見ることができる。つまり、秀秋の裏切りは「関ヶ原の開戦と同時か」「関ヶ原が開戦する前に裏切ったので西軍がその追討に向かい、東軍がそれを追撃した」のどちらかとなる。書状や記録を見る限りは、開戦直後に裏切ったと見ることができるものが多いため、恐らく開戦直後だと思われる。

どちらにせよ、現在よく言われている「関ヶ原で開戦して秀秋が去就に迷い、正午になってようやく決心して裏切った」は誤りだと思われる。

問鉄砲について

では、小早川秀秋を裏切らせたのは家康が秀秋のいる松尾山に対して鉄砲を放たせ、それに怖気付いた秀秋が裏切りを起こした。いわゆる「問鉄砲」ということになっているが、これは事実なのかという点である。まず、当時の一次史料、あるいは江戸時代前期に成立した関ヶ原関係の二次史料に「問鉄砲」あるいはそれに類する記述は全く存在しない。江戸時代中期の史料にもあるものと無いものが存在している。

そもそも、「問鉄砲」という言葉自体が一定していない。史料により異なり、「誘鉄砲」「誘ひ鉄砲」「さそひ鉄砲」「向ひ鉄砲」「迎鉄砲」「問ひ鉄砲」「問鉄砲」とバラバラであり、あくまで「問鉄砲」は一事例に過ぎないのである。

では、「問鉄砲」の記載が最も早い史料は何かと言われると、それは寛文12年(1672年)成立の『井伊家慶長記』である。つまり、編纂史料だが信頼性が高い『当代記』、あるいは関ヶ原時に存命だった大久保忠教が著した『三河物語』などにその記載が無いのである。

しかも、問鉄砲をした武将の名が一定していない。家康の家臣・布施孫兵衛と福島正則の家臣・堀田勘左衛門が鉄砲隊を率いる物頭として記載されているが、史料によっては久保島孫兵衛と堀田勘右衛門、久留島孫兵衛某などと書かれている。しかも、江戸時代中期に成立した史料では問鉄砲を受けた後、小早川軍が混乱したとは書いているが、これを理由にしていきなり裏切ったとは書いていない。この辺りが中期の史料だと曖昧なのである。これが問鉄砲の効果で小早川軍がすぐに西軍を裏切って松尾山を駆け下りた、としているのは『落穂集』であり、江戸時代後期に成立した『徳川実紀』にこの説が採用されて一気に定説化していったという。

そもそも、関ヶ原合戦は開戦してすぐに小早川軍が裏切った、とされている。そのため、正午頃に「問鉄砲」があったこと自体、あり得ないものと思われる。

豊臣家臣団の争いか、徳川VS豊臣の争いか

上記の「その他について」では、「よく、豊臣と徳川の戦いだと誤解されるが、実際は東軍・西軍とも豊臣軍を自称しており、東軍には福島正成など豊臣縁故の大名が、反石田の武断派を中心に多く参加していた。なので実態は、「毛利・上杉・豊臣奉行衆」と「徳川・豊臣武断派」の戦いだったというのが正しい」とあるが、これは正しいのであろうか。

一次史料を見ると、当時の公家である山科言経が記した日記である『言経卿記』慶長5年9月26日条で以下のようにある。

* 「徳川家康は大坂城に入城して、豊臣秀頼和睦した」

もし、家康があくまで秀頼の家臣として留まっていたなら、秀頼と和睦する必要など無いはずである。公家は戦国時代、生き延びるために多くの大名と駆け引きを繰り広げてきた。この言経も父の山科言継と同じように織田信長の時代から諸大名と駆け引きを演じてきた人物であり、この戦いの根底が「徳川VS豊臣」であることを見抜いていたのではないだろうか。

また、書状関係を確認できる限り見ると、「家康への「謀反」という言葉が使用されているのは、関ヶ原前はたったの1件である。関ヶ原前では「別心」という言葉が使用されており、関ヶ原後になって「家康への謀反」という言葉が頻繁に使用されるようになっている。謀反とはあくまで主従関係にある者、つまり家臣が主君に反逆した際に使用するものであり、関ヶ原前の家康は力の差こそされ、同じ豊臣家の家臣なので「謀反」という言葉は使用できなかったのだと思われる。

同じように関ヶ原前は「家康への「忠節」」という言葉が頻繁に使用されている。しかし、関ヶ原後は「奉公」に変更されている。慶長5年10月13日付戸沢政盛秋田実季書状では以下のようにある。

* 「(家康様が秀頼様を守り立てているので)これからは家康様に無二の奉公をすべきである」

奉公とはすなわち、それに見合う働きをして功績を挙げた場合、主君が家臣に恩賞を与えるというものである。家康はあくまで豊臣家の家臣なので、家康に接近していた諸大名はあくまで恩賞は(事実上は別として)秀頼から与えられるものなので、奉公という言葉は使えなかったのではないか。ただ、関ヶ原後は天下人としての地位も事実上家康に移ったため、使うようになったのではないかと思われる。先の謀反と別心と同じように、いわゆる言葉のロジックであると思われる。また、これらの書状の変化などから、当時の人間には根底に「徳川VS豊臣」の争いがあったことを見抜いていたのではないかと思われる。

さらに家康は関ヶ原で勝利を得た時点でも実権者ではあったが、主君に秀頼を立てることは忘れていない。以下の書状でそれがよく示されている。

* 「(私=この場合家康の事、は)すぐに(大坂城を)乗り掛けて攻め崩すべきであったが、秀頼様の御座所なので遠慮した」(慶長5年9月22日付前田利長宛徳川家康書状)。

同じようにこちらにも、当時の家康があくまで秀頼の家臣だったことが示されている。

* 「この時分まで家康公を御主とは大名衆は思わず、天下の御家老と敬うまでであった。御主は秀頼公と心得ていた。諸人下々まで(家康は)御家老と心得て御主とは思わなかった」(『慶長年中卜斎記』慶長5年9月21日条)。

この点から、関ヶ原後は天下の実権、事実上の天下人としての地位は家康にあったものの、名目上はあくまで主君=豊臣秀頼、秀頼の後見役=徳川家康であると周囲から見られていたことがわかる。関ヶ原はあくまで事実上は家康を天下人に押し上げたものの、名目上はまだ豊臣家が上位者という位置にあったと見てよいと思われる。

脚注

注釈

  1. 黄母衣衆や、織田信吉織田長次が布陣したとされる。
  2. 古田重然という説もある。
  3. 徳富蘇峰『近世日本国民史』に引く太田牛一の『慶長記』では古田織部すなわち古田重然とする。
  4. 霧の為に山の上からでは戦況が見えなかったためと言われている。
  5. 秀秋は三成からも戦後に朝廷重役の地位を与えられることが約束されていたので、東西どちらにつくか決めかねていた。
  6. これらの部隊は、小早川の裏切りに備えて配置されていた。
  7. ただし吉川広家書状並びに各合戦記では3000人となっている。また後退時は陣防衛戦で300人程度まで減少していたとされる
  8. 直政はこの時の戦傷が元で、2年後病没している
  9. 『当代記』は二次史料だが、成立が元和年間か寛永年間初期と見られて比較的早く、家康を「内府公」、石田らを「敵」と表現しており、後年の「神君」「逆徒」では無いので、信頼性が高いと見られている。
  10. 島津忠恒は薩摩国に在国しており、そもそも関ヶ原に出陣していない。なのにこの書状では忠恒の名が討ち取った大将の1人として挙げられている。
  11. 柏原は現在の滋賀県米原市柏原のこと。恐らく「関ヶ原」の誤記。福田正則は福島正則のことで誤記。「」は欠損しており、恐らく「大谷」だと推定される。

出典

  1. 笠谷 2000, p. 69-73.
  2. 藤本正行「関ヶ原合戦で家康は小早川軍に鉄砲を撃ち込ませてはいない」、『歴史読本特別増刊』特別増刊、1984年2月
  3. 三池 2007, p. 222-224.
  4. 谷真介 『外国人の見た信長・秀吉・家康』 ポプラ社〈ポプラ社教養文庫15〉、1991年、132頁。