平塚為広

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平塚 為広(ひらつか ためひろ、? - 慶長5年9月15日1600年10月21日))は、戦国時代から安土桃山時代武将豊臣秀吉馬廻として仕え、のちに美濃国垂井城主となる。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、戦死した。

生涯[編集]

父は平塚入道無心。弟に久賀。子に為景庄兵衛らがいる。通称は孫九郎。受領名は因幡守。

最初は豊臣秀吉の馬廻として出仕し、美濃国垂井に1万2000石の知行を与えられた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川家康に対して挙兵を計画した石田三成を諫めるため、大谷吉継の使者として三成のもとを訪れるが容れられず、吉継と共に西軍に参加することになる。同年9月14日、戸田勝成と共に松尾山に布陣した小早川秀秋の下を訪れて秀秋の翻意を確かめようとした。一説にこの際に秀秋と刺し違えようとしたとする説も存在する。翌9月15日、小早川秀秋の動静を監視しながら大谷隊の一翼を担って東軍と死闘を繰り広げる。その最中に秀秋に裏切られて防戦しながらも奮戦するが、秀秋の裏切りに連鎖するように脇坂安治らの側背攻撃を受けて遂に持ちこたえられず、戦死した。

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