糟屋武則
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糟屋 武則 かすや たけのり | |||||||||||||||||
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糟屋 武則(かすや たけのり)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名。賤ヶ岳の七本槍の1人に数えられる勇将。姓は他に糟谷、粕屋、加須屋、賀須屋などの表記があり、諱に関しては真雄(さねお/さねかつ)ともいわれる。諱に関しては他にも数政、宗重、真安、直雄、宗孝などが伝わっている。
生涯[編集]
糟屋家は播磨国加古川(現在の兵庫県加古川市)を本拠とする国衆で、室町幕府の播磨守護であった赤松氏に従っていたが、やがて織田信長の勢力が拡大すると信長の配下となり、武則は信長から播磨を任された羽柴秀吉の家臣となる[1][2]。
信長没後の天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおいて福島正則や加藤清正らと並んで賤ヶ岳の七本槍の1人に数えられる武功を立てたので、播磨並びに河内において3000石の所領を与えられた。文禄4年(1595年)、播磨国内にさらに6000石を加増されて1万2000石になって大名に昇格し、さらに豊臣政権下における近江、播磨の蔵入地の代官に任命された[2]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは武則の動向を示す良質な一次史料が存在せず、後代に成立した『関原軍記大成』によると、西軍に属して伏見城の戦いに参加し、さらに関ヶ原本戦にも参加したとしている。そのためか、戦後に所領を没収されて改易となっているが、武則の動向はその後不明となっている[2]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
関連作品[編集]
- 小説
- 徳永真一郎 「糟屋助右衛門武則」『賤ヶ岳七本槍 秀吉を支えた勇将たちの生涯』 PHP研究所、1992年。ISBN 978-4569564739。