石田軍記

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石田軍記(いしだぐんき)とは、江戸時代に成立した石田三成軍記物語である。全15巻。石田軍記とあるが、それほど三成を絶賛しているわけでもない。しかし、江戸時代当時は三成の事績を世に伝えること自体が禁忌とされていたためか、江戸幕府より絶版を命じられている[1]

概要[編集]

著者・成立年代[編集]

成立したのは江戸時代中期の元禄11年(1698年)と見られるが、これは著書が刊行された年と見られ、実際にはもう少し早い貞享年間(1684年から1688年)、あるいは元禄年間初期と見られている。ただし、明和8年(1771年)の時点で『禁書目録』の中に石田軍記が入れられているため、江戸幕府から絶版処分にされていることがわかる。

著者は平山素閑。この人物は江戸幕府お抱えの儒者である林鳳岡(林大学頭)の弟子で、徳川氏サイドの人間である。その平山がなぜ石田三成の軍記を書いたのかは不明だが、京都でこの軍記を完成させたという。ただ、徳川史観全盛期の江戸時代中期でこの軍記は当たり前のように弾圧対象となり、幕府により著者の詮議が行われる。すると平山は江戸夜逃げし、正徳2年(1712年)に82歳で死去したという。

平山は正徳2年の時点で82歳なので、鳳岡より年長者である。また、生まれた年も寛永8年(1631年)なので、若い頃にまだ関ヶ原の戦いの関係者などに出会っていた可能性は十分にある。林家は幕府のお抱え儒者として多くの史料を集めていたので、その関係から平山がこの著書を完成させた可能性は十分にある。

なお、天和3年(1683年)に成立したと見られる『石田三成記』とは異なるので注意が必要である。

内容[編集]

全15巻。『石田軍記』とあるが、別に石田三成を賛美している内容ではなく、幕府がなぜ禁書にまで踏み切ったのか疑問を持たざるを得ない内容である。

例えば、徳川家康は「慈悲深い名君」として賞賛されている。それに対して石田三成は小賢しい奸臣、あるいは逆臣とされている。例えば、豊臣秀吉の天下掌握までを簡単に最初は書いているが、豊臣秀次切腹事件豊臣秀次を自害させたのは、三成が秀吉に讒言したということになっている。家康が豊臣秀吉の死後に天下を取っていく中で、三成は「豊臣家の天下を守るために家康を除く」のではなく、「自分の野心から家康を除く」ということになっている。関ヶ原の戦後まで語り手の評価を交える形で描かれており、現在一般的に知られている関ヶ原の逸話や流れはこの軍記によるところが非常に大きい。三成と上杉氏の重臣・直江兼続が家康打倒のために謀議をめぐらす場面があり、その時に三成は「自分の野心(つまり天下取り)のために、家康を除く」と言い、直江は「ならば我は家康を倒した暁には関東を手に入れ、そして景勝を倒して関東管領になる」という野心の誓いを交わしており、両者ともに野心家・奸臣として描かれている。

ただ、この軍記は全く信頼性が無い。前述のこともそうだが、同時代の伊勢貞丈は石田軍記を「役立たず」と断じているし、初歩的な誤りが多いためである。例えば、織田信長の命令で中国地方を攻めていた秀吉が、信長の死を知り中国大返しをする前に毛利氏と和睦したが、和睦相手が毛利元就になっている[注 1]。他にも多くの誤りが見られるため、信頼性は非常に低いと言わざるを得ない。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. 史実では元就の孫の毛利輝元。元就はこの11年前に死去している。

出典[編集]

  1. 安藤「石田三成のすべて」P286

参考文献[編集]