小川祐忠
小川 祐忠 おがわ すけただ | |||||||||||||||||||
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小川 祐忠(おがわ すけただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。浅井氏、織田氏、豊臣氏の家臣。伊予府中城(国分山城)主で7万石の大名である[1]。関ヶ原の戦いにおける西軍の裏切り者の1人である。
略歴[編集]
小川家は近江国の領主で、北近江の戦国大名であった浅井長政に仕えていた。長政が織田信長と敵対した際、信長に居城を攻められて降伏し、以後は織田氏の家臣となる。
天正10年(1582年)6月の本能寺の変で信長が死去すると、その信長を討った明智光秀に仕える。しかし光秀はすぐに羽柴秀吉に滅ぼされ、祐忠は秀吉に仕えて以後は賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いや小田原征伐、朝鮮出兵など、秀吉の主要な合戦の大半に参加して武功を挙げ、文禄4年(1595年)に伊予国府中城(現在の愛媛県今治市)に7万石の所領を与えられて大名となった。慶長3年(1598年)に居城を国分山城(今治市)に移した[1]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、同年7月に大坂城に赴いた(『慶長軍記』)。大谷吉継に従って美濃方面に進軍し、関ヶ原に近い山中(現在の岐阜県関ヶ原町)に陣を構えた。ただ、祐忠は当初は東軍に属するつもりだったとされ、『慶長軍記』によると子の祐滋が石田三成と懇意にあったことから父に反発して説得し、遂には「父子が敵味方に分かれることも厭わない」とまで述べて無理やり西軍に属させたといわれている。9月15日の関ヶ原本戦では当初は西軍として参加していたが、小早川秀秋の裏切りに続く形で脇坂安治、子の祐滋と共に裏切って西軍を強襲。大谷吉継の軍勢を蹴散らし、さらに平塚為広らを戦死させた。これにより東軍の勝利は決定的となり、『慶長軍記』においては戦後に徳川家康からその軍功を賞されたという。一次史料においても慶長5年9月17日付の松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署書状においても「小早川秀秋に続いて、脇坂安治、小川祐忠・祐滋父子が裏切った」とあり、裏切りは間違いないものと思われる。
しかし関ヶ原の戦いの戦後処理において、祐忠は家康から改易処分を申し渡された。これは家康が子の祐滋が三成と懇意にあったことを問題視したとする説[2]、祐忠の過去が裏切りに塗れていた[3]のを家康だけでなく東軍の諸将も問題視したとする説などがある。同じ裏切り者でも小早川秀秋は加増移封、脇坂安治は所領安堵をなされており、祐忠の改易については領内の悪政などが問題視された[4]とする説なども存在する。
祐忠は同じ伊予の大名であった藤堂高虎に家康への取り成しを依頼していたが、家康からは拒否されたという。その後、祐忠は浪人となって伊予を去り、京都を経て故郷の近江の地に戻り、関ヶ原の翌年に死去した[5]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]