小川祐滋
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小川 祐滋(おがわ すけしげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。豊臣氏の家臣。関ヶ原の戦いにおける西軍の裏切り者の1人である。
略歴[編集]
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属した。『慶長軍記』によると東軍に属そうとする父・祐忠を自らが石田三成と懇意にあったことから父に反発して説得し、遂には「父子が敵味方に分かれることも厭わない」とまで述べて無理やり西軍に属させたとされている。しかし、9月15日の関ヶ原本戦では当初は西軍として参加していたが、小早川秀秋の裏切りに続く形で脇坂安治、父の祐忠と共に裏切って西軍を強襲。大谷吉継の軍勢を蹴散らし、さらに平塚為広らを戦死させた。これにより東軍の勝利は決定的となり、『慶長軍記』においては戦後に徳川家康からその軍功を賞されたという。一次史料においても慶長5年9月17日付の松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署書状においても「小早川秀秋に続いて、脇坂安治、小川祐忠・祐滋父子が裏切った」とあり、裏切りは間違いないものと思われる。
しかし関ヶ原の戦いの戦後処理において、祐忠は家康から改易処分を申し渡された。他の裏切り者が所領加増や安堵を受けているのに対して、裏切って功績を立てながら改易されたのは祐滋が三成と懇意にあったからとする説がある。それから5年後の慶長10年(1605年)に死去した。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]