島清興

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島 清興(しま きよおき、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将石田三成に仕えたことで有名な武将である。父は島政勝正室北庵法印の娘・茶々。子に信勝友勝清正、娘(小野木重勝正室)、珠(柳生利巌室)。諱も通称の左近(さこん)で有名である。他の諱に勝猛(かつたけ)など。

生涯[編集]

若い頃[編集]

島清興の生年は天文9年5月5日1540年6月9日)と言われるが、確証があるわけではない。生国についても近江尾張対馬大和など諸説がある[1][2]島家に関しては大和東部の平群郡国人で、鎌倉時代末期に武士化していき、戦国時代に興福寺の六方衆(僧兵)上がりの筒井氏が勃興するとこれに従って家老として仕えたという[2]

多聞院日記』には永禄10年(1567年)に富裕で知られる「島の庄屋」なる25歳の男が平群郡の島城に乱入し、城主の豊前守など一族9人を襲って殺し、城を手に入れたとする記録があり、この島の庄屋が清興のことではないかとされている。

筒井家の家臣時代には「筒井の右近左近」と呼ばれて筒井順慶配下のやり手の家老として知られていたという[3]。右近は松倉重信のことであり[3]、筒井家では彼と並ぶナンバー2の地位にあった。天正12年(1584年)に主君の順慶が死去し、養嗣子の定次が跡を継ぐと、定次と意見が合わずに対立する[3]。これには定次の側近・中坊秀祐との対立があったともされ、清興はこのために筒井家を退去した。ただし退去時期に関しては様々な説があり明確にはわかっていない。

その後、清興の実力を知る蒲生氏郷豊臣秀長に仕えたが、いずれも長続きはしなかったという[3]

石田三成への仕官[編集]

清興が石田三成へ仕官したのは三成が豊臣秀吉から近江水口城主4万石に取り立てられた直後のこととされる。なお、この時に有名なエピソードが『常山紀談』に紹介されている。4万石に取り立ててしばらくしてから秀吉よりどれほど多くの家臣を召し抱えたかと問われた三成は「島左近一人を召し抱え、禄の半分を分けて2万石を与えました」と述べた。秀吉は「君臣の禄が同じとは昔より聞いたことがない。世に聞こえた左近ほどの者が三成に仕えたのはそなたの志の深さからであろう。素晴らしい分別である」と褒め、左近を呼び出すと「これより三成とよく心を合わせよ」と述べて羽織を与えたという。後に三成が近江佐和山19万4000石に加増された際に左近に加増をしようとすると、左近は「禄はもう十分だから他人に上げるべき」と言って断ったという。

三成と清興には親子に近い年齢差がある。しかも清興は多くの戦働きで知られた男であるから、世間では「三成に過ぎたるものが二つあり。島の左近に佐和山の城」という唄がはやったという。

関ヶ原[編集]

慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去し、五大老筆頭の徳川家康豊臣政権下において急速に台頭すると、三成は豊臣家を守るために家康と対立する。しかし家康に匹敵する勢力を誇った大老の前田利家が死去するなど、情勢は一段と厳しくなった。そのため清興は家康暗殺を三成に勧めた。しかし慶長4年(1599年)の暗殺計画は三成が暗殺の卑怯を嫌ってその意見を退け、慶長5年(1600年)に会津征伐に赴く途上の近江石部宿で宿泊した際には三成を強引に説き伏せて800人の精鋭で夜襲をかけて暗殺する計画を練ったが、事前に計画が家康に知られて宿泊日程を変更したため失敗に終わった[4][5]

会津征伐を機に家康(東軍)と三成(西軍)の対立は頂点に達する。西軍が伏見城を落として周辺諸国の平定に着手すると、清興は家康ら東軍が会津から戻ってくる前に尾張熱田にまで一気に前進して迎撃態勢を整えるべきと進言したが、これも三成には受け入れられなかった[6]。結果、東軍は福島正則清州城まで東上して戦備を整えることができたのである。

9月14日、徳川家康が美濃に着陣すると、西軍には大きな動揺が走り士気が著しく落ち逃亡兵も出始めた。清興は味方の士気を鼓舞するために東軍に対して奇襲をかけることを進言し[6]、これは三成も受け入れた。清興は宇喜多秀家の家臣・明石全登と協力して有馬豊氏中村一忠らの部隊を挑発して誘き出し、これを伏兵で叩いて勝利した(杭瀬川の戦い)。

9月15日の関ヶ原合戦当日、石田三成隊は笹尾山に布陣して東軍の黒田長政隊と対峙する。この時の清興は朱の天衝の前立兜に桶側胴の溜塗具足、浅葱色の木綿羽織という出で立ちだったと伝わる(『常山紀談』)。戦闘が開始されると、清興は自ら部下を率いて黒田軍に斬り込んで奮戦した。しかし長政は関ヶ原の地理に詳しい竹中重門を道案内にして鉄砲隊を率いて石田隊の側面に回り込ませ、そこから清興に対して狙撃した。このため清興は全身を撃ち抜かれて討ち死にした、と伝わる。

しかし清興の遺体は発見されておらず、関ヶ原から落ち延びて近江余呉の山奥に潜伏した、上京の寺にいたなどとする伝承などが各地に残されており、この真偽はわかっていない[7]

なお、左近は関ヶ原本戦で生き延びた、と言われているが、慶長5年(1600年)9月17日付の松平家乗石川康通彦坂元正連署書状において、左近の名前が討ち取られた大将のリストに載っていることから、戦死したのは事実と考えられる[8]

人物像[編集]

島清興は戦国を代表する名将であるが出自や前半生には謎が多く、風貌を伝える肖像も実は存在しないため[7]、実像にはかなり不明な点が多く後世の史料や軍記物に頼らざるを得ない状態である。

鬼左近』と称されるほど勇猛果敢な武将で、関ヶ原で清興と戦った黒田家臣の回顧によると「左近の名を聞くとわしは今でも身の毛がよだつ。胸がふさがり気分が悪くなる。あの時、鉄砲で撃ちかけなんだら我らが左近めの手にわたっていたであろう。今ここにこうしていることは到底できなかったであろう」と語って深いため息を漏らしたという(『故郷物語』)。

三成とは良好な関係にあったとされているが、それにしては意見が退けられることも多かった。家康は関ヶ原の前に敵情視察をかねて清興と縁戚に当たる家臣の柳生宗矩(清興の娘が宗矩の甥・柳生利厳に嫁いで柳生厳包を産んでいる)を派遣した。清興は宗矩を快く迎え、三成が自分の暗殺計画を用いなかったので「既に時を失いぬ」と述べ、多くの大名が家康に傾いている今では戦っても勝ち目がないことを語ったという(『常山紀談』)。この後、清興は味方を増やすために三成に対して不仲な諸大名とのわだかまりを捨てて交友関係を結ぶことなどを進言したが、これも受け入れられなかった。

志士清談』によると、三成が上機嫌で「天下騒乱の折、秀吉公が五畿七道を掌握なされた。今、このように繁栄して民の喜ぶ姿や声が見聞できる。秀頼様の永久の栄えを祈らぬ者はおらぬ」と言い、周囲は大いに賛同した。しかし清興は「王侯のいるところは昔から人が集まるもので、この繁栄は君主の徳によるものではなく、利に引かれて人々が集まって来ているだけのことです。城下を二、三里離れれば雨もしのげない粗末なあばら家が並び、衣食も足りず、道端に死体が転がっています。城下の繁栄を遠くまで及ぼすことが大切です。豊臣家は今安穏としていてはなりません。御家安泰を武器に頼るのではなく、将士を愛し、庶民をいたわることです。そうすれば二心ある者も従い、恨みを持つ者の心も和らぎましょう。それでも戦いを好む者が出れば、豊臣恩顧の大名を集めてこれを誅すればよいのです。ただ城下の繁栄に奢って下々の憂苦を思わず、武具にのみ力を入れて城郭を構築しても、徳と礼儀がなければ甚だ危ういのです」と諫言したという。しかしこの意見も三成は退けたという。

島左近を主題材とした作品・創作物[編集]

書籍
テレビドラマ
ゲーム
アニメ
マスコットキャラクター

脚注[編集]

  1. 歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P.33
  2. a b 歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P.34
  3. a b c d 歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P.35
  4. 歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P.38
  5. 歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P.39
  6. a b 川口素生 『戦国軍師人名事典』学習研究社、2009年、P284
  7. a b 歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P.41
  8. ただ、この書状では島津忠恒の名が戦死した大将のリストに掲載されている。忠恒は関ヶ原にすら出陣していないので、これは明らかな誤記である。そのため、この書状の信頼性に疑問がある。
  9. 嶋左近キャラクター「左近くん」の使用について平群町公式HP、2015年6月11日閲覧

参考文献[編集]

  • 『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』歴史群像編集部編、2007年
  • 川口素生 『戦国軍師人名事典』(学習研究社、2009年)
  • 楠戸義昭 『戦国武将名言録』PHP研究所2006年