関原軍記大成
関原軍記大成(せきがはらぐんきたいせい)とは、関ヶ原の戦いに関する史料である。21世紀初め頃までは関ヶ原の戦いにおける基礎資料となっていたが、信頼性には現在は疑問視される点が多いとされている。
概要[編集]
著者・成立年代[編集]
著者は宮川忍斎(尚古)。若狭国小浜藩主・酒井忠勝の家臣で、その子の酒井忠直の守役を務めたほどの人物である。ただ、生年が正保4年(1647年)なのでこの経歴は少し疑わしい。寛文9年(1669年)に父と兄が死去したので酒井氏から離れ、江戸に出て中院通茂に和歌を学ぶ。しかし眼病に倒れて九州に向かい、筑後国久留米藩で居を構えて兵法の教授となり、門人を多く抱えた。後に筑前国福岡藩の黒田氏に仕え、貝原益軒の下で『黒田家譜』の編纂にも関与した。しかし、眼病が進んで晩年は失明したという。
宮川が『関原軍記大成』を書く動機になったのは、酒井忠勝が編纂した『関ヶ原始末記』を読んで、まだ当時存命していた戦場経験の武士から話を聞いたためという。そのため、『関ヶ原始末記』を基にした軍記の編纂を思い立ち、江戸に出た後、諸大名家の記録を求め、口伝を集めて完成させたという。延宝3年(1675年)から諸将の軍功の実否を確かめるためにあちこちの伝手を求めて尋ねまわったとあるので、この頃から執筆に取りかかったのかと考えられる。
なお、この書は当初は『伊吹物語』(いぶきものがたり)であったが、この題名はまるで歌書みたいだと言われたので『慶五記』(けいごき)と改め、さらに『関ヶ原記大全』(せきがはらきたいぜん)と改めた。この時は30巻だったという。その後、増補して『関ヶ原軍記大全』(せきがはらぐんきたいぜん)32巻とした。ただ、晩年は忍斎が失明したので、増補作業は後継者の宮川尚敬が引き継ぎ、最終的に正徳3年(1713年)に『関ヶ原軍記大成』45巻として完成したという。
この著書は関ヶ原の戦いの基礎資料として長く用いられたが、現在では後代すぎること、脚色が多く見えることなどから否定的に見られることも多く、信頼性はかなり疑問視されている。
内容[編集]
全45巻。関ヶ原の戦いについて主に書いているが、豊臣秀吉の出自や徳川家康についても書いており、最終的には征夷大将軍に就任することまで書いている。
ただ、45巻と他の軍記と比較して余りに多い。これには理由がある。関ヶ原に出てくる大名家やその武将たち、例えば可児才蔵、渡辺了、後藤基次らの伝記をかなり詳しく載せているためである。宮川は諸国を回って史料や情報を集めたと書いているが、これは著書の信頼性を強化しようとする狙いもあったと考えられる。それと、いわくつきな話もあり、例えば関ヶ原では毛利氏の一族である吉川氏が主家に無断で家康と内通したとされており、当時の吉川家すなわち岩国藩は宮川に事績の書入れを依頼し、その謝礼として20両を用意したという。また、偽作者として有名な沢田源内が著書の中に家康の書状の写しや伝記を是非書き入れてくれと依頼した際に、宮川は疑いつつも取り入れたという。さらに黒田氏に仕えていたからやむを得ないとは思うが、黒田孝高や黒田長政の事績については特別に美化されている可能性がある。黒田父子の事績については宮川は「真実を述べており、贔屓はしてない」と弁明はしている。これらの事情から、やはり後代史料であり信頼性は乏しいと見たほうがいいかもしれない。