木脇祐秀
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木脇 祐秀(きのわき すけひで、天正5年(1577年) - 元和5年(1619年))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣[1]。
略歴[編集]
仮名は久佐、刑部左衛門。父は島津家家臣で肥後国花山地頭の木脇祐昌で次男[1]。
天正13年(1585年)に甲斐氏の攻撃を受けて父は花山城で戦死したため、家督を相続して島津家に仕える。島津義弘に仕えて「小弁慶」と称されたほどの剛勇の士であった。慶長の役では島津義弘に従って渡海したが、南海の戦いで負傷して海に転落し、そこを義弘に救われた上、義弘の膝を枕にして薬まで飲ませてもらって介抱を受けたので、息を吹き返した祐秀は義弘と生死を共にしようと固く誓ったといわれる[1][2][3]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは義弘に従って住吉まで赴いた際、50石の知行を宛がわれた。慶長6年(1601年)には蒲生、後に平松、加治木と所領を移された[1]。
元和5年(1619年)に義弘が死去した際、殉死を遂げた。享年43。法名は心叟了伝[1]。