寺沢広高
寺沢 広高(てらざわ ひろたか、永禄6年(1563年) - 寛永10年4月11日(1633年5月18日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。肥前国唐津藩寺沢家の初代藩主。官位は従四位下・志摩守。
生涯[編集]
尾張国の出身。仮名は忠次郎。当初の諱は正成。Wikipediaでは最初から羽柴秀吉に仕えたように出鱈目が書かれているが、実際は最初は父・広政と共に織田信長に仕えている。天正10年(1582年)に信長が本能寺の変で死去したため、秀吉に仕えた。
天正15年(1587年)、秀吉の九州征伐に参加し、天正17年(1589年)に従五位下志摩守に叙任され、豊臣大名として取り立てられた。
文禄元年(1592年)から秀吉による朝鮮出兵が開始されると、父の広政と共に肥前国名護屋に赴き、渡海軍の輸送を指揮する総責任者の役割を命じられた。文禄の役で上松浦(唐津)を領していた波多鎮が秀吉により改易されて追放されると、文禄2年(1593年)に広高が同地の代官に任命され、少なくとも慶長3年(1598年)までに秀吉によって同地の知行地を与えられて唐津を支配する大名になった。
慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍に属した功績により、慶長6年(1601年)2月に小西行長の所領だった天草4万石を加増され、合計で12万3000石の大名となり、同時に唐津藩主として唐津藩を立藩した。広高は新たな居城に唐津城を築城し、松浦川の河口に位置する満頭山を本丸として慶長7年(1602年)に本格的な工事を開始する。かつて秀吉の朝鮮出兵の際に築城した肥前名護屋城の用材などを転用し、西国の諸大名の助力も得て唐津城は慶長13年(1608年)に完成した。ただし、天守は天守台のみで天守閣は造られなかったという。また、唐津藩内の検地も実施し、元和2年(1616年)に唐津藩の基本的な検地となる「元和の検地帳」が完成した。この検地による総石高は15万776石余と表高より2万7000石余も多いものである。
また、石高が増大したことから広高は波多氏の旧臣を登用し、家臣の知行は地方知行制を採用したが、その知行地を細分化してしまっている。また、大坂の陣以降に平和な時代になると、広高は藩内の荒地を耕地化して経済力の増大を図った。松浦河口の開墾と治水工事、さらに船運の利便化や防風林の植樹などである。一方で広高の農村支配は非常に厳しく、その支配強化のために何度も法令を出したりしているが、農民が遊んだりすることを禁止したり食べ物まで制限を加えるなど非常に厳しいもので、この厳しいやり方が後の天草地方の乱(島原の乱)の遠因になっている。
広高には子に長男の忠晴がいたが早世したので、次男の堅高を嫡男とした。Wikipediaでは死去するまで藩主の地位にあったと出鱈目が書かれているが、実際には寛永4年(1627年)12月に隠居して堅高に家督を譲っている。ただし、堅高は当時まだ19歳のため、藩政を後見した。
寛永10年(1633年)4月11日に病死。71歳没。島原の乱が起きるのはそれから4年半後のことであった。
墓所は佐賀県唐津市鏡の鏡神社境内の側に建立されているが、非常に巨大な墓石である。