赤座直保
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赤座 直保(あかざ なおやす、? - 慶長11年3月5日(1606年4月12日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。朝倉氏、織田氏、豊臣氏、前田氏に仕えた。
生涯[編集]
幼名は小法師。通称は久兵衛尉。受領名は備後守。諱は吉家(よしいえ)とも言われる。
越前国今庄の出身といわれ、当初は朝倉義景に仕えていたが、天正元年(1573年)8月に織田信長の侵攻で朝倉義景が滅ぼされた際、信長に降って所領を安堵されている。天正3年(1575年)11月25日、信長から越前国内で所領を宛がわれているが、この際の名前は「小法師」となっているため、幼少だった可能性もある。所領では某年の5月22日付で慈眼寺に5か条の制札を下している。
信長の没後は羽柴秀吉に仕え、今庄において2万石を与えられて大名に昇進している。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで本戦に参戦するが、小早川秀秋の裏切りに同調して西軍を裏切り、東軍について大谷吉継隊を壊滅させた。その後、石田三成の居城・佐和山城攻めにも参加しているが、戦後に徳川家康から裏切りを非難されて改易に処された。その後、加賀国の前田利長に仕える。
ただ、「直保が関ヶ原で裏切った」とする史料は全て後代の二次史料によるものであり、一次史料で裏切った武将の中に彼の名前は見られない。慶長5年8月に三成が出した西軍大名を表す名前の中にも赤座の名は無く、関ヶ原に出陣していたのか、裏切ったのかは不明である。
Wikipedia日本語版では忌日が書かれていないが、慶長11年(1606年)の3月5日に大門川で溺死するという事故死を遂げた。