堀秀治
堀 秀治(ほり ひではる、天正4年(1576年) - 慶長11年5月26日(1606年7月1日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。越後春日山藩の初代藩主。堀秀政の長男。
生涯[編集]
家督相続[編集]
父は堀秀政、母は喜多島良滋の娘。正室は長谷川秀一の娘。弟に親良、村上義忠、近藤政成。子に忠俊、鶴千代、季郷らがいる。藤原房前の子孫で、斎藤氏や前田氏と遠戚である。1576年生まれで、徳川秀忠と世代が近い。
仮名は父と同じ久太郎(きゅうたろう)。織田信長の側近として権勢を振るっていた堀秀政の長男として安土で生まれる。天正18年(1590年)、小田原征伐に父と共に参加して初陣を果たすが、父は5月17日に小田原城包囲中の陣中において病死した。このため、弱冠15歳で堀家の家督を相続するが、若年のため一族の堀直政が後見した。
しかし豊臣秀吉は秀治の家督・遺領相続を認めなかった。秀吉が秀治の家督相続を認めたのは半年後の11月4日で、これは直政の尽力があったためといわれている。11月6日に従五位下侍従兼左衛門督に叙任して公家成する。また「羽柴久太郎」と称されているので羽柴姓を与えられている。天正19年(1591年)1月12日に従四位下に昇叙する[1]。なお、所領18万石のうち、秀治が相続したのは16万石で、残りの2万石は弟の親良に与えられている。
越前支配の時代[編集]
秀治は越前国北之庄城主として所領を支配する。朝鮮出兵が開始されると、秀吉に従って肥前国名護屋城に赴いて待機する。文禄2年(1593年)6月、秀吉は李氏朝鮮と講和を締結し、これにより秀治は越前に帰国した。文禄3年(1594年)、秀吉から山城国伏見城の普請築城の命令を受けて諸大名と工事の分担を行なった。
上杉家との対立と関ヶ原[編集]
慶長3年(1598年)1月、豊臣秀吉の命令で越後春日山城主で五大老の上杉景勝は陸奥国会津城120万石に加増移封となり、代わって秀治が春日山に入封した。所領は45万石であるが、そのうちの村上城9万石は村上義明に、新発田城6万石は溝口秀勝ら与力大名に分けられたので、実質的には30万石であった。秀治が春日山に移ったのは5月であるが、この際に一族の重鎮・堀直政を家老に任命し、越後統治のために重臣を要所に配置した。直政には5万石が与えられ、その他の一族にも所領を分けて支配を強化しようとした。
ところが、上杉景勝とその重臣・直江兼続は会津に移るにあたって、その年の下半期の年貢米を秀治に渡さずに全て会津に持ち去るという当時としては許されない不法行為を行なっていた。これに激怒した秀治と直政は直ちに上杉家に対して年貢米の返還を要求するも、直江兼続はこれを拒否して対立となる。
そして、この上杉と直江の不法行為により当座の資金を得ることができなくなった秀治と直政は、やむなく越後国内に対して大規模な検地を実施し、新税を課して当座をしのぐしか方法が無くなった。
慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が死去し、次の天下人として徳川家康が台頭すると、秀治は家康に接近する。また、上杉家に恨みがあることから上杉家の行動を逐一、家康に報告していた。秀吉没後に景勝・兼続らが上杉領内で大規模な軍備増強を行なうと、秀治は直ちに上杉家の叛意を家康に報告。これに対して兼続も、自らが年貢米を持ち去って新税が課される原因を作り出したにも関わらず、それに不満を持っていた越後の民衆や神官、僧侶などを密偵を使って扇動し、慶長4年(1599年)8月には遂に越後各地で上杉遺民一揆が勃発することになった。これは関ヶ原の戦いより1年も前に発生しており、事実上の関ヶ原の前哨戦と言えるものであった。
この一揆は発生から1年後の慶長5年(1600年)8月、堀直政を中心とした堀一族の軍勢によって鎮圧され、家康はこれを喜んで直政に感状を出している。これにより関ヶ原の戦いの後、秀治ら堀一族は家康から所領を安堵され、秀治は春日山藩45万石の藩主となった。
若死[編集]
関ヶ原の後、秀治は居城を春日山城から福嶋城に移転することを計画し、その築城に着手した。一部の資料では築城開始については秀治の没後というものもあるが、秀治の生前から計画されていたのは明らかである。
しかし、秀治は福嶋城の完成を見ること無く、慶長11年(1606年)5月26日に病死した。31歳没。遺体は春日山の林泉寺に埋葬された。法名は林泉寺殿節女存忠大居士。あるいは天柱院殿立雪手心大禅定門。
その後[編集]
堀宗家の家督は長男の忠俊が継承したが、越後福嶋騒動で改易。又従兄弟の堀直寄、堀直之の子孫が明治維新まで村松藩、椎谷藩を治めた。
脚注[編集]
- ↑ 『延岡堀家文書』