伊藤盛正
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伊藤 盛正 いとう もりまさ | |||||||||||||||||
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伊藤 盛正(いとう もりかげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。豊臣氏の家臣、後に前田氏の家臣。美濃国大垣城主(3万4000石)[1]。
生涯[編集]
父は織田信長の家臣・伊藤盛景[1]。慶長4年(1599年)に父が死去したため、家督を継承して大垣城主となる[1]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは当初はどちらにも属していなかった。しかし所領の位置が石田三成ら西軍に近く、8月9日になって三成が美濃の垂井に入ると、盛正に対して大垣城を明け渡すように求める。盛正はこれを拒否したが、2日後の11日になって明け渡して今村に退いている。以後、西軍の武将として活動。丸毛兼利の援軍として趣き、東軍の徳永寿昌や市橋長勝らと大暮川で交戦するが、8月16日に敵の夜襲を受けて敗走する[1]。一次史料から見る限りでは、その後、三成の命令で松尾山に砦を築いていたが、9月14日にそこを西軍に属していたはずの小早川秀秋に追い出されて秀秋の裏切りが確実になった事件の当事者となっている。
戦後は改易されて浪人となる。しかし、父親同士がかつて信長時代の家臣だった縁などから、加賀藩主の前田利常に招聘され、元和6年(1620年)頃に加賀藩の家臣となる。それから3年後に没した[2]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]