河尻秀長
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河尻 秀長 かわじり ひでなが | |||||||||||||||||||||||||
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河尻 秀長(かわじり ひでなが)は、安土桃山時代の武将・大名。美濃苗木城主。河尻秀隆の次男。弟に鎮行がいる。名は直次(なおつぐ)とも。受領名は肥前守。
生涯[編集]
父と共に織田信長に仕える。信長が本能寺の変で横死した際、父の秀隆は武田氏旧臣の一揆で殺害されているが、秀長は難を逃れている。
その後は羽柴秀吉に仕え、小牧・長久手の戦いや九州征伐、小田原征伐に参加。朝鮮出兵では肥前名護屋城に在陣した。摂津茨木の代官も務めている[1]。
慶長4年(1599年)あるいは慶長5年(1600年)2月、石田三成の計らいを受けて美濃苗木城主となり、美濃と摂津のうちに1万石を食んだ。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは石田三成の命令を受けて大坂に滞在しており、居城は家老の関盛祥が守備していた。秀長は伏見城の戦いに参加。苗木城は徳川家康の命令を受けた遠山友政によって攻め落とされ、それを知った秀長は大坂で自殺したという。その首級が近江膳所において梟首された。あるいは9月15日の関ヶ原本戦において戦死したとする説もある[1]。
河尻家は改易となり、その所領は遠山友政に与えられた。弟の鎮行は江戸幕府の旗本となって河尻家は存続した[1]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
外部リンク[編集]