堀尾氏
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堀尾氏(ほりおし)とは、日本の氏族である。豊臣秀吉に仕えた堀尾吉晴・忠氏父子で著名である。
概要[編集]
高階氏の出身とされる[1]。この堀尾一族が世に出たのは、戦国時代に御供所村(現在の大口町御供所、布袋駅の東方)の土豪出身だった堀尾吉晴の頃からで、吉晴は織田信長、次いで羽柴秀吉に仕えて頭角を現し、「仏の茂助」と称されて秀吉から信任を受けて遠江国浜松城主として12万石を食む豊臣政権下の有力大名になり、さらに政権における中老の1人に列した。その子・忠氏は秀吉没後は吉晴と共に徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には東軍に属して本戦に参加した。なお、この際に家康に忠義を示すために自らの城を進上する発言をしようとしたが、そのアイディアを山内一豊に奪われた逸話でも知られている[2]。
戦後、忠氏はその功績により出雲国松江藩24万石に加増移封されるが、慶長9年(1604年)に若死。その子の忠晴はまだ幼少のため、存命の祖父・吉晴が後見して何とかこの場は凌いだ。しかし、慶長16年(1611年)に吉晴も死去し、忠晴も寛永10年(1633年)に死去。彼には継嗣が無く、松江藩堀尾家はこれをもって無嗣断絶・改易となった[1]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
松江藩主・藩知事 |