森部の戦い
森部の戦い | |
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戦争: 森部の戦い | |
年月日: 永禄4年5月14日(1561年6月26日) | |
場所: 日本・美濃国・森部(現在の岐阜県安八郡安八町) | |
結果: 織田軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
織田氏 | 斎藤氏 |
指揮官 | |
織田信長 前田利家 |
長井利房 日比野清実 |
戦力 | |
不詳 | 不詳 |
損害 | |
不詳 | 長井、日比野以下170名余戦死 |
森部の戦い(もりべのたたかい)とは、永禄4年(1561年)5月14日に発生した織田信長軍と斎藤龍興軍の戦いである。
概要[編集]
永禄3年(1560年)5月19日、桶狭間の戦いで駿河国の戦国大名・今川義元を破って討ち取り、勢いにのる信長はそのまま美濃に侵攻したが、斎藤義龍の前に同年の6月と8月に木曽川の戦いで敗北した上、逆に義龍に尾張国内を攪乱される有様となった[1]。
だが、永禄4年(1561年)5月11日に義龍が稲葉山城において急死する。斎藤家は義龍の嫡子で数え年でわずか14歳の龍興が継承したが、これを知った信長は2日後の5月13日に美濃にむけて出陣を開始した。
信長は舟橋を架けて木曽川を渡河。そして勝村(現在の岐阜県海津郡平田町勝賀)に着陣する。これに対して当主を失って混乱する斎藤家は対応が遅れ、5月14日になって重臣の日比野清実と長井利房が墨俣砦にいた兵力を率いて迎撃に現れた。斎藤軍は墨俣南方の森部に陣を敷いて態勢を整え、信長はこれに応じて勝村から北上して長良川を渡河し、森部に進出する。こうして両軍の戦いが始まった。
最初は龍興軍の足立六兵衛による抗戦で龍興軍が優勢となった。しかし、織田軍は当主が直率して士気旺盛の上、織田家への復帰を願う前田利家[2]が活躍して首級2つを挙げる戦果を挙げた。しかも利家が討ち取った首のうちの1つは、斎藤軍でも猛将で知られた「首取り足立」と称される剛の者だったという。桶狭間の際にも利家は信長に復帰を願って陣借りして働き、首を3つ取る手柄を立てていたが信長は許さなかった。しかし、今回は許しているのだからその手柄の大きさを考慮されたものと推定される。
一方の斎藤軍は、これまで信長の侵攻を常に撃退していた英主がいきなり急死し、幼主を立ててやっていかないといけない状態。この差は大きかった。数刻の戦いの末、斎藤軍は長井も日比野も戦死し、兵も170人余りを失って敗走。織田軍の勝利に終わった。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 『総見記』