朝鮮戦争

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
画像募集中.png
Wikipedia-logo.pngウィキペディアの生真面目ユーザーたちが朝鮮戦争の項目をおカタく解説しています。

朝鮮戦争(ちょうせんせんそう、英:Korean War)とは、1950年から1953年で一時休戦となっている戦争である。

概要[編集]

共和国朝鮮半島の統一を目指して始めた戦争だったが、社会主義資本主義代理戦争 ()の様相を呈している。

戦闘は一時停止状態となっており、まだ終戦は迎えていない。戦闘再開の可能性も残されていると言われている。

朝鮮民主主義人民共和国側では「祖国解放戦争(조국해방전쟁)」、大韓民国側では「韓国戦争(한국전쟁)」と呼ばれる

後に韓国中国に謝罪と賠償を求める原因になった。[Jokeこの一文には冗談が含まれています。真に受けるかどうかはあなた次第です。]

主な参戦国[編集]

社会主義
北朝鮮ソ連中華人民共和国
資本主義
韓国アメリカ国際連合イギリスオーストラリアニュージーランドタイコロンビアベルギー等の多国籍軍)

推移[編集]

戦争前の前段階として[編集]

1945年8月15日日本ポツダム宣言を受諾して第2次世界大戦は終結するが、実はそれ以前から既に資本主義陣営(西側)と社会主義陣営(東側)の対立が発芽していた。まず同年2月に行なわれたヤルタ会談である。この会談でナチス・ドイツ敗北後の分割統治や東欧諸国の処遇、それにこの時点ではまだまだ続くと見られていた対日戦を早期に終結させるためのソ連参戦について話し合われた。この会談で自国のこれ以上の損害をできるだけ控えたいフランクリン・ルーズベルト大統領は日本に対する領土的野心を持っていたヨシフ・スターリンに対して譲歩し、ナチス・ドイツや日本、東欧諸国などの当事国を無視する形でソ連の勢力圏を形成することを承認してしまった。ところが、この会談の後にルーズベルトが病死し、副大統領から大統領に昇格したハリー・S・トルーマンはルーズベルトと異なりソ連とスターリンに対して強い警戒心を露わにして、7月に行なわれたポツダム宣言において原爆の存在を使って露骨な政治的恫喝を行なう。この会談により、アメリカとソ連は相互不信を深めるようになった。さらに第2次世界大戦後、スターリンがポーランドなど東欧諸国に対して強硬な政治的干渉を行うに至り、東西関係は完全に冷え切ることになった。

戦後朝鮮半島においては日本の占領は終了したが、北緯38度線を境にして北側をソ連が、南側をアメリカが占領することになった。当初はドイツと同様にアメリカ・イギリス・ソ連・中華民国の4か国による信託統治が予定されていたが、米ソの対立の激化並びに中国大陸で国共内戦が発生したためこれは計画倒れになり、1948年8月13日にアメリカの支援を得た李承晩が大韓民国を成立させる。同年9月9日にはソ連の支援を得た金日成朝鮮民主主義人民共和国を成立させ、この両国は北緯38度線を事実上の国境として睨み合うようになった。

1949年、国共内戦を制覇した中国共産党中華人民共和国を建国した。これはトルーマンが構想していた中国国民党が支配する中華民国と連携して米中同盟により秩序を維持する、に大きく反するものであった。そして1950年1月12日アメリカ国務長官ディーン・アチソンワシントンのナショナルプレスクラブの演説で「アメリカが責任を持つ防衛ラインはフィリピン沖縄日本アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任を持たない」と発言した(アチソンライン)。つまり、韓国はアメリカの防衛ラインに含まれなかったのである。アチソンはあくまでアメリカの国防政策において太平洋の制海権だけは絶対に渡さないというつもりで発言したのであるが、北朝鮮の金日成はこれをアメリカが朝鮮半島南部の放棄と一方的に認識してしまった。

同年3月、金日成は訪ソしてスターリンに開戦許可を求めるが、スターリンは中華人民共和国の首席となっていた毛沢東の許可を得ることを条件にして容認した。

開戦と戦乱[編集]

1950年6月25日早朝、ソ連の支援を受けた北朝鮮軍は10個師団、13万5000人の大軍で韓国に対して侵攻を開始した。これが朝鮮戦争の始まりである。

開戦が北朝鮮の急襲であり、さらに韓国軍の弱体などから当初は北朝鮮軍の快進撃が続いた。これはアメリカが李承晩の日本に対する復讐から来る対日報復、敵対的行動、さらに朝鮮の統一や韓国軍の北進を抑える意味で、当時の韓国の軍事力の大半はアメリカが担うことになっており、韓国軍には治安対策用の軽装備のわずかな兵力しか許可していなかった。そのため、ソ連の支援を得た重装備の北朝鮮軍に、ソ連仕込みの電撃作戦を展開した北朝鮮軍に抗するすべもなく、韓国軍は緒戦で総崩れとなった。そしてアメリカ軍であるが、当時のトルーマンは朝鮮半島情勢を甘く認識していたようで、初動の援軍の派遣が遅れてしまい、7月5日の鳥山の戦いでアメリカ軍の先遣隊は敗北した。

7月7日、アメリカ軍は25万人を動員し、さらにこれにイギリス軍、オーストラリア軍、トルコ軍などが加わった国連軍が組織される。だが、急遽動員された国連軍は準備不足であり、勝利により勢いがある北朝鮮軍を前にして敗北を続け、大田攻防戦において大敗を喫し、国連軍は釜山を中心とした半径70キロの扇状陣地にまで追い詰められてしまった。しかし、ここまで勝利を重ねていた北朝鮮軍も連戦に次ぐ連戦で疲弊していた上、自軍の補給が国連軍の航空部隊に叩かれるようになってしまう。さらに北朝鮮軍の主力をなしていたT34/85を中核とした戦車が国連軍に捕獲され、その分析により電気配線の被膜や燃料配管が熱に弱いことが発覚してしまい、航空機によるナパーム弾攻撃により大いに反撃されて稼働が難しくなってしまった。さらに、補給物資で圧倒的に有利な国連軍に次第に押され、国連軍を釜山とその周辺の狭い地域に追い詰めたことでかえって兵力を集中しやすくなってしまい、アメリカが日本を中継基地として毎日数万トン単位で物資を届け始めたため、国連軍の戦力は大幅に増強されることになった。また、北朝鮮軍は陸軍は強力だったが海軍は貧弱で、その海軍力ではアメリカの日本からの輸送を止めることはできなかった。

こうした中で国連軍は1950年9月15日から反撃を開始し、ダグラス・マッカーサー仁川に国連軍6万5000人を上陸させる仁川上陸作戦(クロマイト作戦)を実行する。この上陸作戦に呼応する形で、釜山にいた第8軍も反撃を開始した。これは仁川の部隊をスレッジ(金床)、釜山の軍隊をハンマーに見立てたスレッジハンマー作戦を発動する。仁川に国連軍が上陸したことにより、北朝鮮軍は後背を断たれることになる。釜山の第8軍は90ミリ砲搭載のM26M46を配備して装備を一新しており、北朝鮮軍は結果的にこの圧力に負けて大敗走を開始する。9月28日にはソウルを奪回し、10月20日には平壌を制圧し、さらに国連軍の一部は中朝国境となる鴨緑江にまで達することになった。この時点で韓国全土は国連軍が奪い返し、北朝鮮の領土の6割まで占領しており、韓国のマスコミなどは統一間近などと騒いだという。

中国の参戦[編集]

ところが1950年10月25日、自国の国境線にまで国連軍が迫ったことを脅威に感じた毛沢東は「志願軍」の名目で総兵力20万人に及ぶ大軍を北朝鮮に送り込んだ。この軍は形だけは中華人民共和国の正規軍ではなく志願軍であったが、紛れもない正規軍であった。この志願軍の総司令官を務めたのは林彪であり、彼は動員兵力の多さ、つまり人海戦術を利用して国連軍に襲いかかった。

実は第8軍首脳やマッカーサーも当初は中華人民共和国が軍事介入してくるとは予測しておらず、そのために指揮系統が一時的に混乱する。日本海側、黄海側を進む国連軍もこの志願軍に包囲されてしまい、ダンケルク作戦さながらの脱出劇を演じながら元山港興南港から軍人と民間人およそ20万人が38度線まで後退した。さらに航空戦力においてアメリカ軍が主力としていたB29が中国軍の投入したMIG15によって次々と撃墜されるようになった。これにより、アメリカ軍は航空戦力で大いに押されるようになり、これで勢いに乗った中国・北朝鮮連合軍は12月5日に平壌を奪回し、1951年1月4日にソウルを再度奪った。国連軍は大いに押され、2月までに忠清道まで撤退する。この事態に及び、マシュー・リッジウェイは日本への撤退をマッカーサーに進言するが、その頃の中国軍も人海戦術が既に限界にきており、これ以上の攻勢は不可能な状況にあった。

アメリカ軍は航空戦力で挽回を図るため、F86を投入する。さらに春川とソウルを結ぶラインに対して中国軍の3倍以上の兵力を投入して敵の戦線を切断するリッパー作戦(ノコギリ作戦)を発動し、この結果、3月14日にソウルは国連軍により奪回された。これに対して、北朝鮮まで後退した中国軍は陣地を構築してここに立て籠り、戦況は38度線を軸に膠着状態となった。

マッカーサーの解任、終結への道[編集]

マッカーサーは戦局打開の策として、中国東北部にB29とB50からなる戦略空軍を用いて爆撃することで中国軍の補給線を断ち、さらに補給路を無効化するために国境地帯へ放射性物質の散布まで検討した。一説には原子爆弾の使用を検討したともされている。さらに中華民国、すなわち台湾軍の参戦なども検討したとされるが、これらは当時、朝鮮戦争の解決を模索していたワシントンのトルーマン、国連などと政治的に対立するものであった。特にトルーマンは中国本土の爆撃などでソ連を刺激し、さらに欧州まで戦線を拡大することを恐れ、4月11日にマッカーサーは解任されてしまった。

ソ連側も朝鮮戦争の停戦を模索しており、1951年7月から休戦会談を断続的にアメリカと繰り返すようになった。しかし、米ソともに互いが少しでも有利な条件での停戦を模索していたために交渉は難航した。

1953年1月、アメリカでは大統領がトルーマンからドワイト・D・アイゼンハワーに交代する。さらに3月にはソ連でスターリンが死去した。こうして米ソで最高指導者が交代したことにより状況が劇的に変化し、米ソは朝鮮戦争の終結に積極的になり、1953年7月27日に北朝鮮軍・中国軍と国連軍の間で板門店において休戦協定が結ばれる。これにより、3年間続いた朝鮮戦争は一応終結した。

影響[編集]

この戦争は、多くの国に影響を与えている。

アメリカ[編集]

朝鮮戦争において、アメリカは第2次世界大戦以上の弾薬を消費したが、結局勝つことはできなかった。これはアメリカ建国以来初めての勝てなかった戦争であった。この後、アメリカは日本や韓国、台湾への支援を強化し、東南アジア条約機構SEATO)や中東条約機構バグダッド条約機構METO)を設立して全世界規模で社会主義勢力の封じ込めを図っている。

中華人民共和国[編集]

人海戦術でアメリカ軍を一時的に押した中国軍であったが、この戦争はその人海戦術の限界を思い知らされることになった。毛沢東は敵軍1人に対して中国軍4人まで割が合う、と当初は豪語していたが、13万人を超える重い被害を出して軍備の近代化を急速に進めていくことになる。

日本[編集]

当初、アメリカは占領下の日本の工業力を解体して残った生産力の利用にも制限を行う厳しい戦後経済統制を行おうとしていた。これは日本の経済力を奪うことで国力を奪おうとしたのである。
しかし、東西冷戦の開始、国民党台湾逃亡、朝鮮戦争といった出来事による社会主義勢力への脅威から、アメリカは日本に再軍備させて自国の共同防衛を行おうとし、公務員等の日共支持者を解雇した(レットパージ)。
また、戦後の日本経済はインフレドッジ・ラインによる金融引き締めに苦しんでいたが、朝鮮戦争による朝鮮特需で一気に鉱工業を中心にして再建が成功し、悪化していた国際収支も一気に好転して後に1960年代から開始される高度経済成長の基礎にまでなった。

1951年9月には日米安全保障条約が締結された。また1950年8月には警察予備隊が治安維持を目的として発足し、さらに海上警備力強化の要請を受けた海上保安庁には海上警備隊1952年4月26日に発足し、そしてこれらを母体にして航空戦力を独立させる形で海上、航空の3自衛隊1954年7月1日に発足した。

北朝鮮・韓国[編集]

朝鮮戦争によってインフラの破壊、国土の荒廃、南北家族の離散や文化資産の消失[注 1]なども生じている。
朝鮮戦争後の1953年8月米韓相互防衛条約を締結してアメリカは韓国への支援を強化した。また朝鮮半島の分断は依然継続している。

ベトナム[編集]

ベトナムでも、ベトナム民主共和国による共産勢力の拡大を警戒した旧宗主国のフランスやアメリカの支援の下、1949年のバオ=ダイ元首のベトナム国を経て、1955年にベトナム共和国が成立。朝鮮半島同様北緯17度線で南北が分断される状態となり、ベトナム戦争が勃発。ここでもアメリカは勝つことができず、ベトナム共和国は20年余りで消滅した。

特筆すべき戦局[編集]

アメリカ軍は水豊ダム ()急降下爆撃などの攻撃を加えた。ダムは決壊はしなかったものの、北朝鮮は一時的に発電能力の約90%を喪失し、停電が発生する等の影響が出た模様[1]。戦争時にはダムは攻撃対象になるという一つの事例となった。

脚注[編集]

  1. このため、韓流時代劇は真実視されにくく、『フェージョン時代劇』、『ファンタジー時代劇』と揶揄される傾向がある。
出典

参考動画[編集]

  • アメリカの視点での動画
YouTube 動画リンク

関連項目[編集]

Wikipedia-logo.pngウィキペディアの生真面目ユーザーたちが朝鮮戦争の項目をおカタく解説しています。