アンゴラ
アンゴラ共和国(アンゴラきょうわこく、Angola(AO))とは、アフリカ中南部に位置する共和国である。政体は共和制。国土面積は124万7000平方キロ(日本の約3.3倍)。人口は2011年の時点で1333万9000人。人口密度は10.7人/㎢。首都はルアンダ。国名の由来は16世紀まで栄えたンドコンゴ王国の君主の尊称であった「ンゴラ」にちなむ。ンゴラとは「大王」を意味する。
概要[編集]
歴史[編集]
1482年、ポルトガル人のディオゴ・カンが来航し、その縁から1490年には同国の奴隷貿易の拠点の1つとなった。
1951年、ポルトガル海外州となり、アントニオ・サラザールの独裁体制の下、モザンビークなどと共に植民地体制が維持されたが、アンゴラ解放人民運動(MPLA)、アンゴラ民族解放戦線(ENLA)、アンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)が独立運動組織として相次いで結成されて独立闘争が行われ、1974年に本国でカーネーション革命が起きて、独立への阻害が無くなったことにより、1975年11月11日に独立を果たした。
一方、植民地からの独立が宗主国の旧体制崩壊によるところが大きかったため、直後に、朝鮮戦争と同様、ソ連やキューバといった社会主義国の支援を受けるアンゴラ解放人民運動(MPLA)と、アメリカと南アフリカといった自由主義国が支援するアンゴラ民族解放戦線(ENLA)・アンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)連合勢力による主導権争いが勃発。内戦中の1976年12月1日に国連に加盟している。
1977年にアンゴラ解放人民運動(MPLA)がこの内戦をひとまず制したが、あくまでこの内戦の決着は「ひとまず」でしかなかった。そもそもこのアンゴラ内戦は「アフリカ最長で最悪の内戦」であり、原因がアンゴラ指導者間のイデオロギー対立、各勢力を支援する部族間の思惑などがあるが、最大の要因は当時行なわれていた東西冷戦が、アフリカに軍事拠点づくりとこの国における豊富な天然資源を狙って東西陣営の代理戦争として拡大発展したことだったからである。ソ連・キューバVSアメリカ・南アフリカの構図で開始された内戦により、国民の3分の1にあたる約400万人が国外の難民か、国内の避難民と化してしまい、この国に埋設された地雷は1500万個、死亡率は1000人当たり23.4人(2011年の統計)と世界最悪を記録した。
1988年、キューバの撤退を前提として南アフリカとの停戦に合意する。1992年、国連監視下で独立後初となる複数政党制に基づく民主選挙を実施し、アンゴラ解放人民運動(MPLA)が勝利した。ところが、アンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)がこの選挙結果に不満を持って武力行使に出たため、再び内戦に逆戻りした。1997年、国民統一政府が発足するが、次第に劣勢となっていたアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)は武力行使をやめようとはせず、1998年末に再度内戦が勃発。2002年にアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)のジョナス・サヴィンビが戦死。これを契機に和平が推進され、同年4月に停戦協定が調印されて、アンゴラ内戦はようやく終結した。この内戦における死者は360万人に上ると見られている。
地理について[編集]
この国の国土の3分の2以上が高度1000メートル以上の高原で、平地が非常に乏しい。北部は高温多湿、中部はサバナ気候、南部は温暖で乾燥している。雨季は11月から4月である。
首都・ルアンダの年平均気温は24.4度で、最高気温が3月の27.3度、最低気温は8月の20.7度であり、年間降水量は339ミリである。
経済について[編集]
石油、天然ガス、ダイヤモンドなど鉱物資源に恵まれているが、長期にわたる最悪の内戦や旱魃により、経済は非常に悪い状態。2007年1月に石油輸出国機構(OPEC)に加盟している。
宗教[編集]
住民[編集]
- バンツー系オビンブンドゥ族が37パーセント。
- バンツー系キムブンドゥ族が25パーセント。
- バンツー系コンゴ族が13パーセント。
言語[編集]
通貨単位[編集]
- クワンザ(Kwanza)
国内総生産[編集]
- 1人当たり国内総生産は4473米ドル(2010年)