江田行義
江田 行義(えだ ゆきよし)は、南北朝時代の武将。新田義貞の一族で家臣。
経歴[編集]
南北朝時代の有力武将・新田義貞の一族で家臣である。官途は修理亮・兵部少輔(大輔とも)。世良田有氏の子。
元弘3年/正慶2年(1333年)5月、新田義貞に従って鎌倉幕府討幕の攻撃に参加し、北条守時軍を破るなど武功を立てた。鎌倉幕府がこの戦いで滅亡した後は建武政権に参加して、武者所の3番頭人に任命された。
建武政権から離反した足利尊氏を討伐するために義貞が派遣された際には、行義もこれに参加している。しかしこれにより発生した箱根・竹ノ下の戦いで新田軍は足利軍に迎撃されて大敗し、尊氏の上洛を許すことになる。尊氏上洛後の延元元年/建武3年(1336年)1月、足利軍が守る大江山攻撃に参加し、2月には摂津国豊嶋河原において足利軍と交戦していずれも勝利する武功を挙げた。これにより尊氏が九州にまで落ち延びるとそれを追撃する新田義貞に従うが、播磨国において赤松円心の迎撃にあって円心が守備する白旗城を落とせずに戦線は膠着。この間に九州に逃れて在地の大名をまとめ上げた尊氏が再挙して東上を開始すると、新田義貞に従って播磨から撤退し、5月に湊川の戦いで迎撃するも大敗して帰洛する。
Wikipediaでは「この後の消息は不明」などという無責任な説明がなされているが、この後も江田の生存は確認されている。湊川の戦いにより尊氏の上洛が迫ったため、後醍醐天皇は比叡山に逃れることになり、江田も義貞と共にこれに従う。京都を制圧した尊氏が後醍醐天皇と義貞らが立て籠もった比叡山の攻撃を開始した際には、江田も義貞やその弟・脇屋義助らと協力して足利軍を迎撃し、比叡山攻撃の大将になっていた足利軍の武将・高師重?(高師久か?)に大勝している(『太平記』巻第17)。この勝利に勢いづいて7月には義貞に従って尊氏のいる京都まで攻め入るが、足利軍の迎撃にあって敗北して坂本に引き返した(『太平記』巻第17)。
しかし、9月に入って足利軍の武将・佐々木道誉によって近江国が制圧されて比叡山が兵糧攻めにされると(近江の戦い)、気弱になった後醍醐天皇は和睦を申し込んできた尊氏の誘いに乗って10月に京都に還幸しようとし、この際に江田は同族の大館氏明と共に後醍醐天皇に従って帰洛しようとした。この際に還幸を聞きつけて慌てて駆けつけてきた堀口貞満に江田は大館と共に非難されている。
この還幸は結局、足利方の謀略であり、還幸の行列が法勝寺のあたりに来た時に足利直義により派遣された軍勢によって後醍醐天皇は捕らえられて、3種の神器を足利方に引き渡した上に花山院に幽閉されてしまった。この際の江田の行動は定かではないが、12月になって後醍醐天皇が花山院から脱出して吉野に逃れると、江田も京都を脱出して丹波国にまで落ち、ここで足立氏や本庄氏などと連携して高山寺城に立て籠もり、足利方に対して抗戦したという。
後に北陸にまで落ちた新田義貞が、延元3年/建武5年(1338年)に越前国で活動している際に丹波国で活動していた江田と連携して上洛しようとしたという話があるため、この時までは江田も存命していたのがわかっている。しかし、その後の行方は不明であり、『太平記』にも登場しない。
参考資料[編集]
- 『太平記』