北条貞将

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北条 貞将(ほうじょう さだゆき、? - 元弘3年/正慶2年5月22日1333年7月4日))は、鎌倉時代末期の北条氏金沢流の一族で武将。父は鎌倉幕府の第15代執権北条貞顕嫡男。母は北条時村の娘(異説あり)。屋号を用いて金沢 貞将(かねさわ さだゆき)とも呼ばれる。官位は従五位下左馬助、右馬権頭、越後武蔵守。兄弟は顕助顕恵貞冬貞匡貞高貞助、道顕。子に忠時淳時

鎌倉時代末期の討幕運動の中で、幕府軍の主力の武将として活躍し、壮烈な最期を遂げたことで知られる。諱の貞将は「さだまさ」と言われていたが、近年は「さだゆき」とする説も存在する(『金沢文庫資料図録』)。また、鎌倉幕府の第17代執権、すなわち「幻の第17代執権」とする説も存在する(『太平記』)。

生涯[編集]

生年は不詳だが、父の貞顕の享年が56歳であるため、恐らく30代後半が貞将の享年であると考えられている。

父の貞顕が連署という鎌倉幕府で重職にあった際の正中元年(1324年)11月16日、貞将は六波羅探題南方として上洛している。この際に異例となる5000騎という大軍を率いているが、これは同年に発生した後醍醐天皇一派による正中の変を幕府が重く見て、その対策のために貞将に大軍を与えて上洛させたものと見られている。在京中に武蔵守に任官し、元徳2年(1330年)まで探題職を務めあげた。その後、鎌倉に戻ると執権・連署に次ぐ第3位の重職である1番引付頭人に就任するなど、幕府首脳部から重用された。

元弘3年/正慶2年5月上野国新田義貞が挙兵し、鎌倉に侵攻してくる(鎌倉の戦い)。この戦いの最中である5月18日に第16代執権・北条守時は戦死し、執権職は空位となった。そして貞将は、北条貞直北条基時らと共に鎌倉の防衛に当たっていたが新田軍に遂に突破される。『太平記』巻10によると、鎌倉郊外山内の戦いに敗れて郎党800名余りを失い、自らも7か所に傷を負った貞将は、得宗北条高時が最期の場所として立てこもった北条氏歴代の墓所である東勝寺に向かい、寺にたどり着いた貞将を見て高時は感激し、これまでの勲功を賞して貞将を「両探題職」に任命する御教書を作って与えたという。貞将はこれに対して「北条家の滅亡は今日を過ぎることはない」と思いながらも「多年の望」が達成されたので「今は冥土での思い出になるだろう」と喜んで再度、新田軍のいる戦場に赴いた。この際に御教書の裏に「我が100年の命を棄てて、御主君(公・君)の1日の恩に報いる」と大文字に記し、これを鎧の引合(鎧の胴の前と後を合わせた部分)に入れた上で、新田軍に突撃して壮烈な討ち死にを遂げた、とある。

両探題職という職は幕府には存在しないので、『太平記』が何を記したのかがわからないのだが、実は六波羅探題だけでなく、執権や連署も「探題」と当時は呼ばれていたという。そして、貞将は当時は既に六波羅探題は経験済みであり、再任されて多年の望と喜ぶわけもないので、恐らくは昇進となる執権か連署だと推測されるが、戦死する5月22日の時点で連署の北条茂時は存命しており、執権の北条守時は戦死していた。さらに、江戸時代に成立した流布本系の『太平記』では高時が貞将を両探題職に任命した後、官位も武蔵守から相模守に移したというのである。この官位変更に関しては古本に無いので恐らく後代の追加によると考えられているが、相模守は執権が在職する上での任官職であるため、江戸時代には貞将が第17代執権に任命された、と見なされていた可能性がある。

父の貞顕も東勝寺で自害し、金沢北条家は滅亡した。墓所は神奈川県横浜市金沢区称名寺